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聖マリアンヌ医科大学第2内科助教授であった神経内科医による著作。現在はもう大学からは離れられており、小説やエッセイで有名な方のようです(すいません。読んだことありません。)。医学は科学ではないという主張がされている本ですが、ちょっと引っかかるところも多く、いつもより内容を細かく検討したいと思います。特に第2章までの内容を詳しく。かなり長くなりますが、お許しください。googleで検索して、この新書について書かれているブログ(情報だけの治療室、少しだけ素敵な妄想、血糖を管理する日々、ペペ、slow_tri道楽夢中記、☆going to my sweet dream☆、つれづれなるままに一日一言、気ままにブログ、Loco de futbol、Dentists 愚弄す・・・ Factor)にTBさせて頂きました。時間があるときで構いませんので、ご一読頂ければと存じます。 私は大学病院に勤務する医師で、臨床試験というものの経験が若干あります。そこのところからの身びいきがあるかもしれませんので、そう感じた方はその点を割り引いて考えていただければと思います。 批判する点は大きく2つ。1つ目は、「医療」と「医学」の区別があいまいであることに加えて、「科学」についての理解にも問題があり、「医療は科学ではない」には同意できても「医学は科学ではない」には同意できないということです。2つ目は著者が新書の中で挙げられている臨床試験に関する例が不適切であり、医学は科学ではないということの論拠になっていないということです。その他にも細かな気になるところがあり、そちらも終わりの方で検討したいと思います。最後に、私の考えをまとめたいと思います。 その1 「医療」と「医学」の区別があいまいであることに加えて、「科学」についての理解にも問題がある まずは、「医療」と「医学」の区別があいまいであることに加えて、「科学」についての理解にも問題があるということから、始めます。 まえがきには、「医療というものが、すべて科学的な視点で理解できるものではなく、患者と医者の信頼関係が治療成績に大きく影響することもある。そこには、私たちが誤解、あるいは忘れている本来の医学の姿がある(p010)。」という文章がありました。 最初の医療というものが・・という一文は、納得できます。そこまではいい。今までの経験から納得できます。しかし、次の文で医療という言葉が消え、医学という言葉がでてきていますが、この言い換えが気になりました。ところで、本を読むと、医学という言葉で臨床医学を指しているようですので、今後も医学といえば臨床医学のことにします。 次に、「科学」をどのように考えられているのか、気になりました。 「科学」について著者がどのように考えているかは、47ページにかかれています。生物学者のE.O.ウィルソンによるという 1.実験を再現し検証することができる。2.それによって以前より万物の予測が立つようになる。という2つの条件を満たすものを科学としています。観察科学はどうなるのか、とか、進化論では進化が予測できないから進化論は科学ではないという立場なのかとか、いろいろ不満な点がありますが、ひとまずこれで良しとしましょう。(本当は科学とは何かということについては、疑似科学と科学の哲学にあるように難しい問題があるのですが。) 48ページで、著者は医学は再現性がないということを述べられています。「要するに、同じ患者がいないのであるから、これを比較することが非常に難しいということだ。これが医学には再現性が欠けているという理由である。(p48)」 この文章を読むと、「医学は再現性が無いので科学ではない」と主張しているように思えます。ちょっと、ここで、詳しく検討してみましょう。 同じ患者はいない、それは正しいでしょう。でも、科学の再現性とは、以前とりあげたグリンネルの研究成功マニュアルによれば(p36-38)、 「科学は個ではなく集団を対象にしている(p36)」「実際に科学研究としてして成り立つのは、個々の細胞の特性のうち、その細胞集団の特性として実験できるものでしかない」。 この通りだとすれば(というか、この通りだと思います)、科学は集団の特性を研究しているので、同じ患者がいないからといって医学は科学ではないとは言えない、と思います(反論は私個人というよりはGrinnell氏、あるいは科学者全体にお願いします)。 ちょっと話が変わりますが、同じ患者が居ないと強調しすぎると変なことが起こります。例えば、自分が胃癌になって手術を受けるとしますか。そのとき2人の医者の意見を聞いて、1人目の医者は「あなたの病期(病気の進み具合)で研究した報告があって、Aという手術をすれば○○%の方が5年間生存したと報告されています。でも、何人もの患者さんを調べた結果だから、あなた個人が治るかどうかは、やってみないと分からない部分がある。」と言い、2人目の医者は「あなたの病期での研究報告がありますが、あなたはその研究に参加していないですね。ですから、その研究結果から、あなたが治るかどうかはわかりません。」と言われたとしましょう。 2人から、私が治るかどうか分からないといわれたとしても、どっちの意見を聞きたいですか?1人目の医者なら別のBという手術の結果についても説明してくれそうですが、2人目はそれについても同じ答えです。とすると、1人目の医者から聞きたいですよね。同じ患者がいないという意味で再現性が欠けているとしても、Aという手術がいいか、Bという手術がいいか、情報が得られるのは1人目の医者からのみです。私なら1人目の医者にかかります。著者はどちらのタイプの医者なのでしょうか。1人目とすれば、ご自分が同じ患者がいないから医学には再現性が無いと主張していることと矛盾しているように思いますし、2人目なら患者に何も情報を与えることができない医者です。 さて、話を本筋に戻しましょう。医学に再現性が無いことのもう一つの理由として、「医者自身の技術的な差の影響(p48)」を挙げられています。「1人の患者で、2人の医者の技術的な差を比べることはできない。(p48)」。これは確かに問題です。医者の腕に差があれば、治療方法だけじゃなく、医者の腕も治療効果に影響を与えそうで、評価が難しくなりそうです。でも、実際の医学研究では、この問題に対する工夫がされています。 専門的になりすぎて申し訳ないのですが、胃癌の手術でリンパ節をどこまでとっても安全か調べる臨床試験が日本で行われました。その結果が 国立がんセンター中央病院の佐野先生らによりGastric Cancer Surgery: Morbidity and Mortality Results From a Prospective Randomized Controlled Trial Comparing D2 and Extended Para-Aortic Lymphadenectomy?Japan Clinical Oncology Group Study 9501という題名で、Journal of Clinical Oncology Vol 22, 2004: pp. 2767-2773に掲載されています。結果はさておき、この臨床試験は手術でどこまでリンパ節をとっても大丈夫か調べる試験ですから、外科医の力量が治療効果の差に直結します。 この試験で、患者さんはランダムに、リンパ節をとる範囲が普通の群と広い群に分けられますが、そのときに普通の群と広い群でバランスをとるために層別化が試験の参加施設によっても行われました。参加施設で層別化したということは、外科医が所属する施設で、リンパ節をとる範囲が普通の群と広い群でバランスが取れるようにしたということです。こうすると、リンパ節をとる範囲が広い群で危険だったのは、そちらに手術が下手な施設が多く割り当てられたからだ、という可能性が少なくできます。どちらも同じようにバランスが取れていれば、治療効果に差があればそれは治療方法によるものです。こういうことをすれば、医学研究、特に臨床医学における治療法の研究は十分科学的でしょう。 また、腕のいい医者、悪い医者がいることが、医学が科学ではないことの証明であると言われています(p49)。これについても、少し考えてみましょう。 何回も引き合いに出しますが、グリンネルの研究成功マニュアルの38ページには、「実験操作は一種のパフォーマンスなので、もともと芸術的な要素もある。そういう意味で言えば、たいていの研究者は何か特殊なテクニックに優れているというのも事実である。」とあります。科学者の実験技術にも上手い下手があるということです。科学者の実験技術に差があるから、科学は科学ではないとはおかしな言い方です。実験技術に差があっても科学なのです。ですから、腕のいい医者、悪い医者が居たとしても、医学が科学でないことの証明とは言えません。 他にも、21ページから24ページまでの、結果が歪められる大規模調査と見出しがつけられた節がありますが、節の見出しがいけません。高血圧の治療の臨床試験であるALLHATの結果をもとに、さまざまな方が議論されているようですが、結果が歪められたのではなく、結果をどう解釈するかを議論しています。著者だってきちんと24ページに「解釈まで変わってきてしまうのだ」と書いてあるのに。細かいようですが、重大な違いです。事実と意見の区別、結果と解釈の区別は重要です。結果をごまかせば、それは不正です。しかし、解釈を議論するのは、科学として当然の営みではありませんか。 18ページに「医学は普遍的なものではなく、変化しつづけるものと理解すべきである。だからこそ、医学に対して、過大な期待や絶対的な信頼を置くこと自体が不可能であるのだ。」と、あります。同感です。でも、医学を科学と言い換えても、全く同感です。科学にだって過大な期待や絶対な信頼を置くことはできません。著者は、どうも科学に絶対的な信頼を置きすぎているような気がします。著者の使う”科学”という言葉には、万能の意味が含まれているような気がします。でも、科学ってそんなものではないみたいです。 再び、グリンネルの研究成功マニュアルから引用します。「科学を理想化しすぎるために、人々は長い間、科学を万能だと思い込んできた。社会が抱えているすべての問題も、科学的手法をうまく使えば必ず解けると思い込んでいる。これは現代社会にとってはまったく不幸なことである。(p221)」。 その2 著者の臨床試験の理解には問題がある 例えば、臨床試験の話題で、31ページに「「もしかするとまったく効果の無い偽薬が処方される可能性もある」と事前に患者に説明することになるのだが、患者がそんな新薬治験に参加するとは思えない。あまりにも患者にメリットが少ないからだ。」という文章がありました。 臨床試験における偽薬(プラシーボ)の使用については、ヘルシンキ宣言に詳しくかかれていますので、そちらを参考にして頂きたいと思います。こちらにヘルシンキ宣言の日本語訳があります。 下のほうに脚注があり、第29項目明確化のための注釈を引用します。 WMAヘルシンキ宣言第29項目明確化のための注釈 これをみると、治療方法が無い場合に偽薬は使われることが分かりますね。なんらかの治療法が既にある場合は偽薬は使用せずに、既にある治療と新しい治療を比較することになります。治療方法があるのに偽薬を投与されるということは、現在の臨床試験ではないと考えていただいて構いません。 治療方法が無い場合も、偽薬を使うよりは新しい治療を受けたほうが長生きできるのではないかという疑問はもっともだと思います。しかし、「現代社会の倫理を考える2 生命と医療の倫理学 伊藤道哉著 丸善株式会社」という本からの引用になりますが、「「効果のまったく無いことが分かっているプラシーボを患者に使用することは、患者の不利益につながるので、非倫理的」という意見には、すでに一方の試験治療に効果があるはずだ、という思い込みが入っている(p55-56)」と、このような考え方がバイアス(偏見)を含むものであることが示されています。比べてみたら、新しい治療には効果はまったく無く、毒性ばかりが強い治療という可能性だってあるということです。 ここで問題になった研究者のバイアスについては著者も触れています。19ページから20ページにかけて、人間ドックの有用性を研究する医師に触れ、「あくまでも人間ドックは有用であるという大前提のもとに研究が行われている。そういった研究であれば、どうしても研究者のバイアス(偏見)がかかってしまう。」 その通りです。ですから、「臨床試験はそもそも1.医師がどちらの試験治療が優れているか未だ確信が持てない、2.患者もどちらの試験治療を受けたいか特に好みが無い、が同時に満たされていなければならない。どちらか一方の治療が優れていると確信している医師、どちらかの試験治療を望んでいる患者は、プロトコールを守らない可能性がもともと高いので、臨床試験に参加すること自体許されない。(生命と医療の倫理学 p55)」のです。研究者のバイアスがかかるような研究は、やってはいけないのです。倫理的に問題が出てくるのです。そのような原則に外れる可能性がある臨床試験があるということもわかります。でも、そのようなことは許されることではありません。 その3 細々したこと 46ページ 「医学が科学と考えられるようになったのは、近代医学以降の話で、それまでは医学は曖昧で科学的なものとはみなされていなかった。」 「医学の不確実性 中川米造著 日本評論社」という本では、モンテーニュやモリエールらによってさんざんその曖昧性をからかわれてきた医学(p7)とありますから、曖昧だったのはよいでしょう。しかし、その本の9ページには、「科学」という用語が現在の意味を獲得したのは1831年の「イギリス科学促進協会」の設立のころからであるという、とありますので、曖昧とはみなされたころには科学的なんて言葉は無かったので、「曖昧で、科学的なものではない」いうのは、その時代の人間にはできない言葉の使い方ではないでしょうか。 また、独身男性の寿命の統計を話題にしていますが(p37-39)、これは交絡として知られていることです。交絡があるために相関関係と因果関係は違うので解釈に注意が必要だということは、常識と思っていました。「医学統計はその見方や資料をどう使うかによって、まったく違うものになってしまう危険が常にあるということだ。(p39)」と書かれています。それはその通りですが、医学統計に限ったことではありません。どんな分野でも当てはまることです。医学が科学ではないことの論拠となるものではありません。 本来、医療が患者のものであるとするなら、正しい治療とは、医学的・統計的に正しいことを選択することではなく、患者の望む選択をすることであるはずだ(p15-16)とありますが、これはどのような状況で当てはまることなのか、それを明らかにしないと倫理的問題が発生するのではないでしょうか。例えば、宗教的理由で輸血を拒否した患者、経済的理由から治療を受けないと言う患者、安楽死を望む患者など、ちょっと考えただけでもいろいろな状況があります。あまりにも省略した言い方で、意見の述べようもありません。また、そんな極端な状況じゃないとしても、医師と患者の間の情報の不均衡を考えると、この考えは無条件に受け入れることはできないのではないかと思います。医学的・統計的に正しいことを相手にわかるように説明した上で、別の治療で患者がそれなりに利益を得るのでなければ、患者が望むことをやるというのはどうかと思います。 まとめ 著者の意見に全部反対かというと、そういうわけではありません。著者は医療情報開示が難しいということを54ページから56ページで述べられています。それには、異論は全くありません。というか、まさしくその通りです。同じ患者がいないということが反映して、医療成績にはその医療機関の技術が数字として反映されない場合があるということは、完璧にその通りです。また、患者と医者の信頼関係が治療成績に大きく影響することもある、というのもホーソン効果として知られていることで説明ができると思います。 今まで、いろんなことを言ってきて、ころっと態度が変わったと受け取られかねないことを書くのも気が引けますが、私は「医学は科学的根拠の無い知識を全く含んでいない」と考えているわけではありません。詳しく検討すれば、ずっと昔の教科書をただ引用していただけで、実は科学的根拠なんて無かったなんて知識は山ほどあると思います。それでも、医学は科学ではない、と言い切ることは私にはためらわれます。 最初で、医療と医学の違いが引っかかったと書きました。私は医療は科学ではないというのには、同意できます。しかし、医学は科学ではないというのには、少し注釈をつけさせていただき、臨床医学には(臨床試験の結果に基づいた)科学知識もある、と言いたいのです。 また、医学研究には、一般の科学研究には要求されない倫理が要求されます。その点では、医学は科学ではない、とは言えるかもしれません。(ヘルシンキ宣言に医学研究に必要な倫理的配慮が詳しくあります。近年、動物実験でも動物に不必要な苦痛を与えないという倫理的要求がありますが、動物実験と同じことを人間に行えば人体実験になるようなことまで禁止されているわけではありません。)(「科学者とは何か 村上陽一郎著 新潮選書」参考) 医学は科学ではないと述べるとしても、その論拠は、私と著者では全く違います。同じ言葉でも、背景にあるものが違えば、意味も違うと思います。 |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
【医学は科学ではない 米山公啓著】に意見する、に意見を頂いてきました。
先日、「医学は科学ではない 米山公啓著」に長々と意見しました。詳細はこちら。 ...続きを見る |
三余亭 2006/02/13 21:28 |
医学と工学は科学か?
「医学は科学ではない」という書籍があるそうだ。 医療と医学の区別が曖昧だそうで、 ちょっとその辺はルーズな議論のようだ。 確かに、臨床的実践としての医療と 学的研究としての医学との区別はあるべきだと思う。 そして学的研究としての医学を見れば 科学的探求と共通する要素があるのは本当だろうと思う。 医療には「治療」という目的に従わねばならないので アリストテレスの分類で言えば 医療は学問(エピステーメー)ではなくて技術(テクネー)になるのだろう。 そういう風に考えると医療と医学の... ...続きを見る |
地獄のハイウェイ 2006/02/22 20:42 |
阪大の論文捏造事件に思う その2
【医学は科学ではない】に意見する で長々と書きましたが、私の意見は、「臨床医学のある部分は科学である」です。その科学である部分の根幹に、大阪大学論文捏造が問題を起こすのではないかと考えたので、前の記事でいろいろと書かせていただきました。はっきりしたことは、捏造論文の名を連ねていた臨床医は下村先生お一人だったことです。しかし、下村先生も、おそらく基礎系の教室の教授としての立場が主な論文だと思います。以上をふまえると、臨床系の教室での不祥事とは考えません。しかし、基礎系とはいえ医学部から出され... ...続きを見る |
三余亭 2006/02/23 15:47 |
患者は何でも知っている EBM時代の医師と患者 J.A. ミュア・グレイ著 斉尾武郎監訳 中山書店
Evidence based medicine、略してEBM(日本語訳は(科学的)根拠に基づく医療)というものが提唱されて10年以上になります。医療行為の根拠をきちんと求めて行う医療と考えていただければいいと思います。手順など、詳しくは日本大学医学部公衆衛生学講座のサイトでどうぞ。他にもGoogleで探せば色々見つかります。EBMを実際に臨床の場で活用されている白浜先生の論文がこちらで読めます。臨床倫理とEBMについて書かれた論文で、これを読んでいただければ、医学的適応と医療上の判断は異な... ...続きを見る |
三余亭 2006/03/08 17:22 |
【医学は科学ではない 米山公啓著】についての日経サイエンス2006年4月号書評を読む。
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/newguide/0604/index.htm#にて日経サイエンス2006年4月号にでた「医学は科学ではない 米山公啓著」に対する書評がでました。 ...続きを見る |
三余亭 2006/04/11 19:30 |
放屁を過剰に気にする「おなら症候群」が男性に増えている
「おなら恐怖症」サラリーマンの悪循環 人前での放屁を過剰に恥ずかしく思うあまり、対人関係にも支障をきたしかねない「おなら恐怖症」に悩むサラリーマンが増えているという。 「出もの腫れ物ところ嫌わず」でまき散らしているタイプには信じられないかもしれないが、.. ...続きを見る |
医学処 2006/09/20 00:50 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
血糖を管理する日々の管理人です。的確な補足をしていただいた形で、ありがとうございます。 |
YCAT 2006/02/10 02:00 |
長々とした文章で、後から読み返してわかりにくいところが多いのですけれども、読んでいただきありがとうございました。 |
三余亭 2006/02/10 11:01 |
米山先生のブログを発見したので、TBしました。 |
三余亭 2006/02/17 15:01 |
検索をしていて自分のblogの名前を見つけたので、コメント入れさせて頂きました。TBは届いていない模様ですので、もう一度入れて頂くとうれしいです。 |
dgf 2006/04/16 23:25 |
dgfさん(Dentists 愚弄す・・・ Factorさんだとおもうのですが)、コメントありがとうございました。 |
三余亭 2006/04/17 18:44 |
すみません、blog名を忘れていました。お察しの通りです。 |
dgf 2006/04/17 21:23 |
dgfさん、こちらこそよろしくお願いいたします。 |
三余亭 2006/04/18 20:00 |
私は、科学から医学へと進路変更を決めた者です。本屋でたまたま目にしたこの記事に書かれている本を読みましたが、疑問に思うところが多く残りました。三余亭さんと同様、医療と医学、さらに、科学自体のの理解の曖昧さを感じました。また、医療と患者の両者のネガティブな面ばかり誇張しすぎているような気がしました。 |
mm 2006/09/10 03:09 |
mm様、コメントありがとうございました。 |
三余亭 2006/09/12 12:14 |
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