「生命の尊厳とはなにか 医療の奇跡と生命倫理をめぐる論争 アーサー・カプラン著」で、事前指示advance directiveは失敗という指摘があり、これは臓器移植についていろいろ書く前には、呼吸器外しと関連して主に考えていたことであり、ちょっと一言。なお、advance directiveとリヴィング・ウィルの違いについては、稲葉一人氏による医療における意思決定 ――終末期における患者・家族・代理人――という論文での解説を引用すれば、 米国では、自己決定権を尊重し(中略)、無能力患者の場合は、代行権者が意思を代行することにより、患者の自己決定権を尊重してきた。患者の意思の、代理行使の方法は、将来、無能力場合のために自分の希望をあらかじめ書面に残すという方法、これが事前指示(Advance Directive)であり、その方式には、Living-Willという方式と、持続的代理権授与(Durable Power of Attorney)という方法がある。しかし、前者は、終末期の現実の具体的な状態を予想して、これを描写することが困難であること、後者は、臨機応変の判断は可能な反面、それが必ずしも本人の希望や意思に沿っているとは限らないという相反するともいえる問題を抱えている。 とされており、事前指示の中にリヴィング・ウィルが含まれているようです。稲葉氏は判事のご経験もあるようで、リンク先の論文では終末期の意思決定での法的問題について詳しく解説されています。 「生命の尊厳とはなにか」にもどりますと、その中で、 「生前有効遺書(リヴィング・ウィル、不治の傷病の際には延命措置をとることなく死を希望する旨を表明した文書)は失敗である。(p259)」「アメリカ人のうち生前有効遺書を用意していない人は、4分の3をはるかに上回っている。(p260)」「カリフォルニアで最近行われた研究は、多くの人々、とりわけ、ラテン系アメリカ人、先住アメリカ人、アジア系アメリカ人が自らの死について語ることを非倫理的だと考えていることを明らかにしている。(p261)」と書いており、事前指示 advance directiveを書いている人は多数派ではないようです。 ラテン系アメリカ人のみならず、イギリス人もそんなことは話題にしないようで、ピーターシンガーの「生と死の倫理」の中でも、イギリスでのトニー・ブランド訴訟に関連して、「かの惨事が起こる前のどの時点においても、ブランド氏は万一自分がそのような状態に置かれた場合について自らの願望を示すようなことは何も語っていない。それはたいていの成人が話題にすることではない。(p87)」と書かれています。 「生命の尊厳とは何か」は10年ほど前の出版です。10年前の話を鵜呑みにしては問題があるかもしれませんから、最近の文献も読んでみました。Journal of American Medical Associationの2005.Jul 20;294(3):359-65.のJames A. Tulsky氏によるBeyond Advance Directives Importance of Communication Skills at the End of Lifeという文献では、膵臓癌患者が事前指示の文書を作成したことが確認されないまま緊急事態の処置が行われ、望まぬ医療を受けた例が書かれています。関係者には2003年12月にインタビューされていました。 状況は以下の通りです。 患者さんは55歳男性のMr N。画像診断では結腸と肝臓に浸潤した膵臓癌であったが、病理組織は診断に耐えうるものではなく、病理診断は未確定であった。Mr Nは、病理診断をはっきりさせ、癌に対する治療を行いたいとプライマリケア医のDr Wに希望した。彼は命が短くなっても、肉体が機能的であることを希望しており、長期間機械につながれていることは避けたいと希望していた。しかし、癌の診断が確定するまではDNRオーダー(心肺蘇生不要)は表明しないとのことであった。彼は娘のMs Nの援けを得て意思決定をしていた。 関係者のインタビューは、
娘:手術の後、医師達は父をいろんな機械につなげて、心臓が止まるからと鎮痛剤を与えなかった。医師達は私がDNRの文書を持っているのに、父を何時間も痛みで苦しませていた。 Dr V(外科医):外科チームは彼の状況についてどうなっているのか完全に走っていたわけではなかった。手術の後にはじめて家族が何を知っていて何を知らないのか話して感じとる機会を持った。私は家族に予後はそんなに良くないことを話した。娘は彼女の父が強引な処置は彼の父の意思に反しているので、もし彼が起きたら非常に失望するだろうと言ってきた。私は自分のショックと失意を隠そうとした。 手術は問題は無いと思うのですが、家族はその後の気管内挿管や鎮痛剤が投与されなかったことが、問題だと感じているようです。一方で、外科チームとしては蘇生不要などは確認できていないわけで、そうするわけに行かないことも理解できます。 Dr W: While he was awaiting his CT scan, . . . his pressure dropped. He became unresponsive and was intubated. [After the surgery, the family was] distraught to see him in the ICU, with a tube in his mouth. They were questioning if this was what he would really want. Dr W:CTを待っている間、彼の血圧は下がっていった。彼は反応しないようになり、気管内挿管された。手術の後、彼の家族は彼の口にチューブがあるのをICUでみて取り乱していた。家族は彼がそれを本当に臨んでいるのか疑問に思っていた。 Dr V:救急救命室から出ようとするときにプライマリケアチームの主治医が来て、彼と話した。彼は私に父親が積極的なことは何も望んでいなかったが、彼は十分なまでに相談を終了してはいなかったと話した。その時点で、これが私の知っていることだった。 患者さんの希望が、医師チームに十分表明されていなかったことも、今回の一件の一因のようです。
Dr W:手術の後、家族は彼が法律家が携わった事前指示を書いたと言った。私は、今事前指示の書類を手に入れることが非常に重要だと話した。オフィスに行って、Faxを待った。彼の脈がおかしくなったが、彼はまだfull code(おそらく緊急事態には処置をするという意味)だったので、ICUのチームは蘇生処置を始めた。 Ms N:父は痛い・痛いといい続けていた。医師達はcode blue(緊急事態の意)と叫んだ。私は叫び始めた。「なぜ聞こうとしない。私は父が望んでいないといっている文書を提出している。彼は痛みを感じている。彼はモルヒネによって死なせてくれと言っているし、あなたたちが彼の意思を無視していると言っている。」 Dr W:蘇生のあと、私は事前指示を持ってきた。ICUの医師により緊急時に何もしないことが(カルテ・指示簿に)書かれた。私の医師としての経験の中でもっとも身の毛のよだつ経験の一つだが、彼はものすごく痛いと言いながら、チューブを引き抜こうとし続けていた。家族は父がチューブをもはや望んでいないと決め、チューブを抜くことを決めた。それはもちろん、父親に合ったばかりのICUチームを動揺させるものだった。私はICUチームに、これは家族の一部や患者についてのその場の思いつきの決定ではないことを助言した。チューブは抜かれ、その後彼はまもなく亡くなった。 法律で決まっちゃうと、いざという時に融通が効かないのですね。医師達も、訴えられる可能性があるから、書面が無いと方針を変えられないのでしょう。必要なときに必要な書類が揃ってないと駄目なわけです。 この論文では、患者・医師間に加え医師同士のコミュニケーションの問題などについていろいろ詳しく述べられており、参考になります。 事前指示が法律で定められていても終末期医療の現場での混乱はおきうるし、特に事前指示を書いていても確認に手間取るとこれほどの混乱を引き起こすということはアメリカでも起こりうるようです。日本で事前指示などが法律的根拠を持っても、同じような混乱はおきるのではないでしょうか。 |
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三余亭 2007/04/14 00:39 |
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