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zoom RSS 【バイオポリティクス 人体を管理するとはどういうことか 米本昌平著 中公新書】

<<   作成日時 : 2006/07/13 23:38   >>

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生命倫理に関する本ですが、それなら何故バイオエシックスではなくてバイオポリティクスなのか。著者によれば、
20世紀後半に生まれ、その骨格を築いてきたバイオエシックスは今、その限界が見え始めている。理由はいくつかあるが、基本的には自然科学全体が、これほどまでの規模で組み換えられるとは考えられていなかったからである。そしてわれわれが直面するこの大きな課題を表すものとして、ここでは「バイオポリティクス」を採用する。(p14)
著者が示す理由は後で紹介することにして、バイオポリティクスの意味するところは、「先端医療や生物技術に関する政策論(p16)」で、その言葉を、フーコーが指摘した「生物学的な「種」の側面に介入し、これを管理しようとする権力の働き(p15)」も「視野に置きながら(p17)」用いるということです。

何故、バイオエシックスではいけないのか。著者によれば、4つの理由があるようです。
第一に30年前にアメリカで産声をあげたバイオエシックスは、自然科学研究の主軸がかくも大規模に生命科学に移行することを想定したものではない。(中略)バイオエシックスは、あえて言えば、拡張された医者―患者関係の倫理学であった。(p18)

逆にいえば、生命科学技術が絡まないで、医者―患者関係ですむうちはバイオエシックスでよいように読めます。

第二に、20世紀バイオエシックスが拠って立つ論理の限界が見てとれる局面が出てきた。バイオエシックスは、思想的には「自己決定」という単純かつ明解な考え方を基礎としている。(中略)この原理を、医療の現場や生命科学研究における倫理的手続きとして表現したのが、インフォームド・コンセントである。(p21)インフォームド・コンセントの原則を厳格に当てはめることに起因する困難(たとえばゲノム研究)や、インフォームド・コンセントだけを条件とした場合の社会的感情との対立(たとえばヒトES細胞研究)、という形で問題が表出した。(p22)

第一の理由と合わせて考えるなら、医者―患者関係に社会も加わった関係になるとインフォームド・コンセントだけでは困難が生じるということなのでしょう。ゲノムに比べれば小さな問題の感じもしますが、呼吸器外しの問題も、これと似たように、医者―患者家族―社会の3者の問題であるから家族の同意だけで済まされない問題になったというように考えることができるかもしれません。

第三にバイオエシックスの論理とアメリカの社会哲学との、本質的な親和性である。(p22)

アメリカ流の社会哲学からすれば、「患者の自己決定」という考え方以外はとりえなかったのであり、バイオエシックスもこの社会的現実の上に築き上げられてきた体系である。

だが、人体の処分権を個人に認め、自己決定と自己責任の原理に委ねたアメリカは、他の先進国と比べて、人体組織の商品化が格段に進んでしまった。また、ヒトゲノム研究が進んだ結果、さまざまに広がった遺伝子検査が特許の対象となり、人生設計に必要な情報を提供するサービス産業として成長している。ベンチャー企業には、時期尚早と思われる段階から商品化してしまう傾向があり、アメリカの科学界はこれを批判してきた。

欧州社会は暗黙のうちに、このようなアメリカの状況を反面教師とみなしてきている。欧州におけるバイオポリティクスは、個々人は、とくに危機的状況では誤った決定を行う恐れがあると考え、生命倫理的課題に対して法律や共通ルールを策定する方向にある。むろん欧州社会も自由と多元的価値を社会的原理として掲げる。しかし、同等に公序も重視するのである。(p24-25)

人体組織の違法売買は以前に書きました。USA Todayの記事がまだ読めるようです。人体組織の加工には費用がかかりますから、どこかで金銭が絡むのは仕方ないとしても、個人的利益の追求ということには抵抗感を感じます。これを反面教師とするのは共感できます。そして、個々人は危機的状況では誤った決定を行う恐れがある、ということも腑に落ちます。動転しているときは、個人の決定に任せない場合が良いこともあります。たとえば、「抗癌剤は絶対嫌だから癌に効くと宣伝していた食品を選ぶ」なんて、絶対に本人のためではありません。こういう経験をすると、個々人は危機的状況では誤った決定を行う恐れがある、ということも本当に腑に落ちます。

第四に、先進国以外の多数の国々がこの分野へ参入し始めたことが、20世紀バイオエシックスが絶対のものではないという確信を広める結果になった。(p25)経済格差による価値観の違いが問題視されなかった理由の一つに、そもそもアメリカの社会哲学がそのような社会構造を所与のものとしてきたという側面がある。(中略)1970年代に発達したこの学問は、もともと保守色の強いものであり、商品としての医療保険を購入できない所得層が医療サービスを享受しえない現実を、間接的にしろ、自己責任原理によって正当化してきたのである。(中略)一方、欧州では国ごとに医療の機制に微妙な違いがあり、自国で受けられない治療サービスを他国に受けに行く「医療ツアー」が出現している。(中略)だが、EU拡大が進むことによってEUの中核諸国と最近EUに加盟した中東欧諸国との経済格差は著しく大きくなり、事実上の”臓器売買”が発覚するまでになった。(p27)
臓器売買については、今まで結構書いてきました。こういうことも自己決定を基本とするバイオエシックスでは対応が困難だということのようです。個人的には前に書いたように金銭が絡んだ臓器提供には臓器の安全性に疑問がある可能性が避けられないと考えていますので、臓器提供に金銭が絡まないほうがいいと思っていますが、そんなこと言ってられないし聞いてられないというレシピエントやドナーもいるでしょうから、自己決定だけではなかなか対応が困難な問題ではあるわけです。

以上の理由から、
20世紀バイオエシックスから21世紀バイオポリティクスへ」と、わざと荒っぽく定式化してみることで、直面する課題がより見えやすくなると思う(p14)
と著者は述べています。

確かに、本書でも触れられているアイスランドのバイオバンク(こちらこちらを参考にしてください)やイギリスのバイオバンクについては”政策論”としての対応もわかります。このような研究が今後増えるでしょうが、どの研究でも問題になることがある程度決まっているのなら、あの施設倫理委員会はこの条件で研究は認められたが、こちらの施設の倫理委員会では駄目というようなことを避けるためにも、一律に法規制するのは悪くないように思えます。但し、この場合も、個人の同意は必要と考えるのは、バイオエシックスの影響を受けすぎでしょうか?そんなことは無いと思うのですが。

バイオバンク以外に、ES細胞の問題や、ゲノムと研究の問題などについても述べられています。

著者はフランスをバイオポリティクスのお手本と考えていらっしゃるようです。
フランスは、生命倫理的諸課題の政治的主題化(バイオポリティクス)という21世紀の課題に真正面から取り組んだのであり、意識的にその最先端を走ろうとしているようにも見える。(p209)
さて、フランスでは、どんなことが行われたのでしょうか。
生命倫理的な諸課題の出現に応じて、フランスの法体系が拠って立つ哲学(形而上学)を明確にし、ここを基盤に演繹的・体系的な法整備を行ったことにある。人体的自然の扱いを個人の自己決定だけに委ねる道は採らず、国家が人体的自然の管理・統御に関与する必然性を論じ、そのための関与の様式を示し、立法府を歴史的議論に巻き込んだのである。(p209)
哲学から入りましたか。では、その哲学とは、どんなものか。サパン司法大臣の演説によれば、
人体の法的地位は、それへの不可侵と、譲渡不可能という、二つの基本原則を軸に編成される。これで人間の尊厳と人格は保障される。(中略)不可侵の原則は、第三者からの侵害に対し各人が等しく保護される権利を、確固たるものにする。この原則は、人体は人格が受肉したものであり、まさに人間の本質の一形態であり、それにふさわしい尊重を享受しなくてはならない、という思想にその基盤を見出す。(中略)
第二の原則である、人体の譲渡不可能の原則は、人格の代替不可能性を基盤とする。この原則は、商取引において契約の対象となりうるのはただ一般的な物のみであるという、民法典第1128条の条文に由来し、ここから展開され拡張された法解釈の中に存在する。
譲渡不可能の原則により、人体およびその要素は財産権の対象とはなりえない。それらは商品とはなりえず、商取引の対象にもなりえない。人体をよびその要素を対象とする有償の契約はすべて無効であり、その種の契約の参加者に対する報酬は、すべて禁止されることが確定した。利他主義と無償原則は、人体に向けてますます拡大する組織的な毀損、とくに臓器売買に対抗するための盾として重要である。(p212)
つまり、
人間を「受肉」という神学用語を用いて、観念的側面である人格と、物質的存在である人体を、ともに人間の異なった象限の像であるとし、第三者の侵害からは無条件に守られるものとした。言い換えれば、人体・人格・人権=三位一体説とする哲学を宣言し、これに立脚して関連法規の大改編を行ったのである。(p213)
なるほど。

個人的には、法律で全体を規制するバイオポリティクスよりは、個人の判断に任せるバイオエシックスの方が、自分が気に入らないことをされることが無いという点では良いような気もします。しかし、倫理問題は「自分の勝手」というわけにはいかない場合もあります。【ここからはじまる倫理】から一部要約すれば、「中絶をする人もいれば中絶しない人もいるという場合は、社会全体として中絶を行っていることになる。中絶を傍観させらている人は、傍観していることによってその社会を肯定的に受け入れなければならない。このような問題の場合、他人を巻き込まずにたんに自分のしたいようにするとはできない。」このことと、公序の維持ということを考えると、生命倫理に政治・法律が今以上に関係してくる、ということも仕方ないのかもしれません。

著者は在野の研究者で、アカデミズムに対する批判もありました。
国に向かっては、生命倫理は重要だからと研究費を要請してきた。政策官僚の方も、思いついたように、マスコミ受けする研究予算をつけて業績稼ぎをし、研究者の側は研究費を投げ与えられて、高級そうなシンポジウムを開き、同業者の間でのアリバイ的な業績稼ぎに、当然のことのように国費を消費してきた。(中略)橋や道路といった公共事業と同じような、政策官僚と研究者との癒着の構図である。(p261)
自然科学の予算も最近の捏造やら不正使用やらを考えると、そのうちこのような批判が避けられないかもしれません。ま、ちょっとずれた話題ですが。

どんなことも政策で片付けられるわけでは無いのでしょうが、公序を考える、ということも問題解決の一助になると思いました。

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