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zoom RSS 【ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む 野矢茂樹著 ちくま学芸文庫】

<<   作成日時 : 2006/09/02 16:32   >>

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本書を読むことは、『論理哲学論考』を読むという体験でもある。つまり、私が開講する「『論理哲学論考』を読む」というゼミに参加するような体験を、本書で味わっていただたい。(p13)

との意気込みで書かれた本書は、確かにそのような体験ができたような気がします。

著者が言うには、
身も蓋もない言い方をするならば、この本は間違いなのである。(p16)

『論考』はまちがっている。オーケー。そのとおりだ。それはもう教科書的な事実だ。しかし、全部なのか。全部まちがっているのか。そうではあるまい。では、どこがまちがっていて、どこがまちがっていないのか。いや、全部まちがっているという意見もある。実際、かつての授業では私自身そんなふうに言った。『論考』はきわめて緊密に構築された体系であるから、一点のほころびが、そのすべてをパンクさせたのだ、と。いまの私はそうは考えていない。それどころではない。哲学問題のすべてが解決されたというのはさすがに嘘だけれど、『論考』の構図は基本的に正しいのである。(p17)
まちがっている、しかし構図は正しいとの見解です。これは理解するのが難しくなりそうです。

全体もまちがっているという見解は、「言語哲学大全U 飯田隆著 勁草書房」で述べられています。(本当は「ウィトゲンシュタイン 飯田隆 講談社」が良いのかもしれないですが、手元に無かったので。)
要素命題とはどのような命題か、あるいは、そこまで問わなくとも、「これは赤い」といった命題が要素命題でないとすれば、それの要素命題への分析はどのようにして行われるのか、といった問いは、答えを必要とする。
哲学に復帰したウィトゲンシュタインが、最初に取り組んだのは、この問題である。まもなく、かれは、「これは赤い」といった命題を、相互に独立である要素命題へと分析することが不可能であることに気づく。『論考』のように緊密に構成された建造物は、その一箇所にでも亀裂が見いだされたならば、全体が音を立てて崩壊しかねない。そして、事実、起こったことは、このとおりであったと思われる。(p86―87)
一部が違うので全部間違い、わかりやすいです。何事もそれくらい緊密に構成するのが理想なのだろうと思います。でも、単純な計算問題や漢字の書き取りならそうかもしれませんが、現実のもっと複雑な問題では、一部が違って全部間違いということは、そうそうあるものではありません。それが『論考』に当てはまるかどうかは別ですが。

突然ですが、ちょっと用語の解説を。要素命題とはなにか、【『論理哲学論考』を読む】では、名だけから成り立っている命題(p129)だそうです。名とはなにか、命題の構成要素(p61)だそうです。他にも命題の構成要素は論理語があります(命題は名と論理語から成り立っている。(p129))。命題とは何か、像として用いられているような文(p60)。像とはなにか、世界の「現実の代わりとなる箱庭」(p42)。論理空間とは、可能性として成立しうることの総体(p29)だそうです。著者は2つの灯りaとbが点灯している・いないの組み合わせでできる点灯論理空間(p108)というものを例に出して解説していますが、これには点灯していないということは含まれないそうです。否定的な事態をどうとらえるかということは、本書に詳しくありますが、なるほどと思いました。また、要素命題の独立性とは、ある要素命題の真偽は他の要素命題の真偽に対して論理的に何の影響も与えない(p149)ということだそうです。この独立性を要請すると、「Aは赤い」ということから「Aは青くない」ということが言えるので、「Aは赤い」ということは要素命題ではないそうです。

さて、『論考』の構図は正しいのか、全部まちがっているのか。著者も要素命題の相互独立性を要請したということは間違いということは認めていらっしゃいます。そして要素命題の独立性を否定した上で、以下のように述べられています。
要素命題ないしその否定が相互に論理的な関係に立ちうることを認めた上で、なお単純なものを要請することができる。かくして私は、「ポチは白い」は要素命題であり、ポチは単純な対象であり、白いもまた単純な対象だと言いたい。さらに、単純なものなどごくふつうにあるのだ、とも。(p147)

ウィトゲンシュタインは要素命題の相互独立性の要請を撤回した後も、先に見たように要素命題の存在を要請することは正しいと考えていたのであるし、また、たとえ「文法」というより大きな規則体系の一部として捉えなおされることになったにせよ、論理語に関しては『論考』の理論はそのまま保持されたのである。また、世界のあり方を記述した命題が像という性格を持つという考えも、要素命題の相互独立性の要請の撤回と連動して消えてしまったわけではない。要素命題の相互独立性の要請を撤回しても、実は『論考』はそれほど多くのものを失いはしないのである。(p161−162)

もちろん、まったく無傷というわけにもいかない。とくに連動して修正を受けねばならないのは、論理空間のあり方である。要素命題が相互独立でない場合があるのに応じて、事態もまた相互独立性を失う。それゆえ、その分論理空間における可能な状況が制限されねばならない。(p162)

しかし、つまりそれだけのことである。(p163)
本書全体を読み終えての感想ですが、それだけのような気がします。論理空間つまり可能性として成立し得るものの総体の要素がなくなるだけの気がします。単純なものが普通にあれば、の話ですが。

単純な対象に対する著者の考えは、
ウィトゲンシュタインに反していささかノー天気に言い放ってしまうならば、少なくとも日常言語における固有名は基本的に単純な対象をあらわした名なのではないだろうか。(p142)

対象の単純性とは、すなわち名の単純性であり、それは、その名が表すものが存在しないとしたらその名を含んだ命題が偽ではなくナンセンスになるものとして規定される。他方、複合的なものに対する表現は、それが表すものが存在しないときにはそれを含んだ命題は偽になる。この規定は、要素命題が相互に論理的な帰結関係を持ちうるとしても、なお生き残るものである。(p146)

言葉で言葉を説明することには限界がある。それゆえ、言語はどこかで世界と直接に結びついていなければならない。単純者の要請とは、すなわち、言語と世界のこの紐帯の保証を求めるものにほかならない。(p146)

著者は固有名以外にも、「白い」なども単純な対象とするわけです。言語と世界を結びつけるためにです。これを読むと、単純なものはふつうにある気がしてきます。

しかし、文庫版に加えられた文章を読むと、単純なものは普通にあるのかどうか、気になってきます。

文庫版では、あとがきにかえて、として『哲学探究』から見た『論理哲学論考』と題する文章が加えられています。その中で『論考』に対して」2点修正・追加しなければならない点があるとしています。
第一に、指示ということの基礎には自然な身体反応のレベルがあるということ。第二に、名の指示対象は見本として、それ自身言語的な身分をすでに有しているということ。
この文章を読むと、単純なものというのも、簡単に決められそうにはない気がします。指示対象が言語的な身分である、というところと対象が単純であるということが両立するのかしないのか。さてどうなのでしょうか。著者には「『哲学探究』と『論理哲学論考』を合わせて読む」という本を是非書いていただきたいと思いました。その中で、この点について解説があるといいな、と思います。

ここで取り上げた以外にも、論理を操作としてとらえること、操作される対象として基底を考えること、構成主義による無限、独我論など『論考』の最初から最後まで解説されています。

読みやすい本ですが、読みきるには少し努力が必要かもしれません。

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