三余亭

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zoom RSS 【不完全性定理 ゲーデル 林晋・八杉満利子訳・解説 岩波文庫】

<<   作成日時 : 2006/12/14 01:02   >>

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今年はゲーデルの生誕100年になるので、ゲーデルに関連した本がいろいろと出ているようです。ちくま学芸文庫からも【不完全性定理 野崎昭弘著 ちくま学芸文庫】が出てました。勉強になりました。その【不完全性定理】のあとがきで、いろいろ教えていただいたと触れられていた林晋氏と、八杉満利子氏による、ゲーデルの不完全性定理の翻訳と解説です。

第I部はゲーデルの不完全性定理の論文の翻訳です。ここを読むのは私には無理。でも、【不完全性定理】の解説とあわせると、なんとなく流れはつかめます。なんとなくですが。第U部の解説7・8でも論文の解説があります。難しいです。

第U部の大部分は、ゲーデルの不完全性定理の解説というよりも、不完全性定理が出てくる背景の解説になります。これは【不完全性定理】【無限論の教室】でも触れられていて、そこではカントールによる集合論から始まっていますが、本書にではカントールによる集合論の前に、コーシーに始まりワイエルシュトラスにより完成した極限の厳密化、解析学の算術化から背景の解説が始まっています。ε−δ論法なのですが、これは学生時代、慣れるのに困った論法でした。
軍事技術者養成を目的とするエコール・ポリテクニークでは、解析学の教育方法が大きな問題となり、様々な教授法が研究された。コーシーの方法は、その一つであり、学生には大変不評であったが、結局これが解析学の厳密化の標準となった。(p88)
ということで、やはり当時からわかりにくかったようです。

カントール以降、ヒルベルトを中心に、ブラウワー(ブローエル)、クロネカー、ラッセル、ポアンカレとの論争が紹介されています。これは【不完全性定理】よりも詳しく、大変面白いです。

【不完全性定理】【無限論の教室】でも、無限をどう扱うか、ということが論争の一部になるわけですが、
「数学では、何を存在として許容できるのか」という問題への19世紀数学者の見解は、大きく割れていたのである。(p97)
ということで、負の数の存在を信じなかったド・モルガンが紹介されていました。中学生がつまずく概念は、やはりそれなりの理由があるものだと、不完全性定理と関係のないところで納得してしまいました。負の数でさえ信じなかった数学者が居るのですから、無限集合も意見が分かれて大論争になるのでしょう。

クロネカーは、「伝統的数式による「有限算術」のみを許す(p102)」「有限主義的態度(p99)」だったそうで、その観点からカントールを批判したそうです。しかしながら
「クロネカー流の「具体的」数学では、操作すべき数式が巨大化しており、原理的には操作・理解できるはずのものが、平均的数学者には、実際には操作不可能・理解不可能なものになっていた。巨大すぎる有限は、ある種の「性質の良い無限」よりも取り扱いにくいのである。(p105−106)
ということで、無限を扱うほうが楽だったようで、ヒルベルトは自然数の無限数列の中には最小の数がある、という最小値原理を用いてゴルダン問題とよばれる問題を「計算を必要としないと言ってもよいくらい簡単(p143)」に解いたそうです。
有限性や計算にこだわらない証明が、いかに数学の本質を体現し、そのゆえに単純で理解しやすいかをきわめて強く印象付けた。(p147)
ということで、
計算は「悪」、計算を使わない思考による数学は「善」という単純な世界観が数学の世界を支配してしまったといって良い。しかも、この極端な方向転換がなんら問題を引き起こさないほど、計算無視の非構成的数学は豊かな数学的成果を提供し続けたのである。(p147−148)
これなら、なんとしても無限を擁護しないといけないという気になります。

それに加えて、ヒルベルトには数学の可解性(すべての数学の問題は可解である)と主張しているノートがあり、数学の可解性を信じていたらしいのです。この可解性思想が数学基礎論研究の動機とのことです。ところが、「ブラウワーの排中律の問題が自らの可解性思想と矛盾する(p218)」ということで、ブラウワーとの間の論争が激しくなったようです。ブラウワーとの論争は人間関係など泥臭いことも書かれていて、大変面白いです。不完全性定理とは全く関係のない話ですが、こういう話もまた面白いです。結局、政治的にブラウワーの発言力を奪ってしまい、勝った形になったようですが。でも結局、ゲーデルの不完全性定理で、自らの目論見が外れてしまったのは【不完全性定理】【無限論の教室】にあるとおり。

しかし、ヒルベルトやブラウワーによる数学基礎論争には「真の勝者はいない(p172)」し、「真の敗者もいなかった(p172)」ということです。まずは、
1967年にビショップが排中律、非可述的集合、ブラウワーの原理のいずれも使わない、通常の数学的推論方法の一部だけで解析学の非常に大きな部分を再構成してみせた。(中略)これをビショップの構成的数学という。(p266)
排中律を使わなければブラウワーとしては賛成できるのでしょう。また、
逆数学という分野が登場し、PRA(原始再帰的算術。式としては等式のみ、全ての原始再帰的関数の定義と数学的帰納法を持ち、それを形式系にしたもの(らしい)。有限の立場と同一視されるようです。)と本質的には同じだけの安全性を持つ第2階算術の部分体系の中で、極めて多くの数学が再現されることまで証明されている。(p268)
ということで、ヒルベルトが目的とした「数学の全体を、その極く小さい一部分に還元すること(p254)」が、「第2不完全性定理により放棄されたはず(p269)」だが「数学の相当大きな部分で半ば達成可能だという重要な事実を示している(p269)」。ブラウワーにしてもヒルベルトにしても、やろうとしていたことは、全てではないにしても大部分はどちらの方法でもできたようです。なるほど、勝者も敗者も居ないのですね。

ということで
ゲーデルの定理により数学が不完全であることが示された」という数学論を展開する人たちは、多くの場合、数学が「穴だらけ」であるような議論をする。ところがゲーデルの定理以後の数学の歴史が証明していることは、これとは逆の事実である。(p272)
不完全性定理を真剣に受け止める数学者は極めて少ない。多くの数学者は、それを単なる周辺的な定理と理解している。(p274)


内容のある数学では問題になることはないようです。

【不完全性定理 野崎昭弘著 ちくま学芸文庫】を読んだあと、是非、この文庫本も。面白さが増すこと間違い無しです。

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