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zoom RSS 【善と悪 倫理学への招待 大庭健著 岩波新書】

<<   作成日時 : 2007/01/15 18:19   >>

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【初めての分析哲学】【私はどうして私なのか】の著者による新書。カバーには、「道徳的にみて「善い」「悪い」という判断には、客観的な根拠はあるのか。(中略)ソクラテス以来の大問題を、最新の分析哲学の手法を用いて根底から論じ、倫理学の基本を解き明かす。」と書かれています。こんな風に書かれると、大上段に構えた本だという難しい印象を与えてしまいますが、専門用語がごちゃごちゃ並んでいるわけではありませんので、簡単にとは言いませんが、理屈が好きな方はそんなには苦労せずに読めるのではないかと思います。

苦労はしないとは言っても、やはり論じられている問題が、まえがきにあるように
「道徳的にみて善い・悪い」という述語は、ものごとに備わった客観的な性質を表すのだろうか? という、最も基本的な問に焦点を合わせている。(p A)
というわけですから、話はそんなに簡単には進みません。

気弱な人をいじめるNさんが居て、それをとがめる”あなた”との会話が例にあげられています。なかなか難しい状況になっています。
(略)あなた:しかし、君だって、自分が痛い目に会ったり、自分が惨めになるのは嫌だろうが。
N:俺だって、俺が惨めになるような目には会いたくない。しかし、俺がいじめている奴がどう感じているか、などということは、俺が生きているという実感の大切さからすれば、二の次、三の次にすぎない。
あなた:自分が生きている実感の大切さという点では、君もあたしも、みんな、お互いさまじゃないか。
N:その「お互いさま」ってやつが、俺が生きているという手応えを窒息させるんだな。(p27)


まあ、こんな風な極端な人はあまり居ないとは思うのですが。一体こんな主張をどうしてしているんだろうと、細かに議論していきます。結局著者の主張は
人-間である、すなわち人の間にあるかぎり、各人は、そのつど他者に対して−なにものかとして−ある。少し堅い言葉で言えば、こうなる。人-間であるというときの各自の存在は、存在しているかぎり、どこまで行っても対他的存在なのである。(中略)したがって、あくまで自分を「お互いに」という相互性の圏外に置こうとすることは、現に人-間でありながら、しかし人-間の条件を否定しよう、というに等しい。(p62)
ということです。

この「お互いに」という人間関係への配慮の重要性については、本書の後半でも出てきますし、著者が倫理を考えていく上で重要な考えとして捉えているように思います。「お互いに」という人間関係への配慮は、人間が人間である限り、どんな社会においても通用すると主張されています。

ウィリアムズが提案したという濃密な価値語(「誠実」「冷酷」などなどのような記述的な意味の明確な評価語)と希薄な価値語(「善悪・正邪」のような普遍的な評価語)を解説した後、
私たちは、”このパターンの行為は、一般に、人間関係のありかたに何をもたらすのか?”と気づかう。「誠実」「広量」あるいは「不実」「狭量」といった濃密な評価語は、多かれ少なかれ、何らかの形で、こうした気づかい(ケア)というコンテキストにおいて、その気づかいゆえに浮かび上がってくるパターンを言い当てようとしている。
こうした気づかいにもとづくコンテキストは、なにか特定の自然観・世界観を必要としない。(中略)さればこそ、私たちは(中略)神話に出てくる行為・人物の誠実さ・不誠実さに心を動かされる。人間は、呼びかけ応じる間柄において、そのつど他者に対して何者かであるという仕方でのみ自己という存在を与えられる生物である。人間がそうであるかぎり、気づかいという関心は、文化の違いを超えて、共通である。そのかぎりにおいて、濃密な評価語の意味は、汎文化的・歴史貫通的である。(p131−132)


希薄な価値語という言葉には少し注意が必要でしょう。著者によると、希薄というのは「意味するところが普遍的・一般的であるがゆえに、それぞれの文化・社会に特有な負荷を捨象して用いうる(p113)ということだそうです。より普遍的なものなのですね。一方、濃密というのは「記述的な意味が明確な分だけ、それだけ一層それぞれの文化・社会に特有な負荷が色濃くかぶさっている、という意味だそうです。

そのような濃密な評価語を使用している状況の中から、「問題となっているのは、”濃密な評価語を用いて肯定的に評価できる態度・行為を選択することが、どうしてよいのか?”という問である。(p166)」と、「生きられている道徳の中から、反省が、ここまで煮詰まってきたとき、「善悪」「正邪」を主題とする倫理学が立ち上がる。(p167)」そして、「善悪の概念には、(中略)「形がない」。個々の徳性は、善悪の例示には役立ちうるとしても、その定義を与えない。したがって、諸科学における理論的な概念がそうであるように、善悪もまた、その明確な定義を与えるには、何らかの原理が必要となる。(p178)」

道徳原理を考える前に考えておきたいのは善悪は実在するものなのかどうか、ということです。著者によれば、
「親切」「誠実」といった行為傾向のパターンが実在的であるのと同様に、「善悪」もまた、抽象的ではあるが実在する性質を表している。(p179)
その理由は、「道徳的な特性とは、対象に接したときの情緒的な反応を、あたかも対象の性質であるかのように、対象へ投影したものにすぎない(p87)」という投影主義に対する著者の意見に見られます。著者は、
私は、ある人に接して恐怖感をいだき、「あの人は怖い人だ」と語った。もし、この言明が、私の恐怖感をその人物に「投影」したに過ぎないのなら、この言明が間違いである余地はない。(中略)しかし、その人物は、他人に恐怖を与えるような人ではない。このことをよく知っているあなたは、「あの人は、怖い人なんかではない」と私をたしなめる。怖れる理由もなく怖れるにふさわしくない人物について、「怖い人である」と述べるのは、間違いなのである。恐怖感といった単純な感覚特性にかんしてさえ、対象の側からの制約は働いている。
そうだとすれば、いわんや善し悪しの判断においては、そうした制約が働かないとは非常に考えにくい。これが、投影主義を検討するときに考えねばならない(中略)本質的な問題である。
と反論し、その後引き続き、道徳判断を表す述語Pについて、
そもそも、ものごとに接したとき、ある述語Pを適用していいのか否か。これを区別するときに、対象の側からの制約が働くとしたら、その限りにおいて、述語Pは、実在的な性質を表しているのではなかろうか。(p96−97)
述語Pを出すところは分析哲学なのでしょう。

さて、道徳原理ですが、普遍化可能性((その主張をしている人物が)いまの発話状況と比べて、構造は同じだが登場人物が入れ替わっている、すべての状況において、いま主張している全称命題を主張する用意がある(p186))と、普遍性(自分が、いまの信念・価値観と異なる信念・価値観をもっていたとしても、この命題を主張する用意がある(p188))という2つの条件を満たしていなければならないということです。

さて、著者が提唱する道徳原理ですが、ここでも人間の対他的存在ということが効いてきます。著者が考える「悪」とは、対他的存在としてあることを破壊すること、とまとめられるのではないでしょうか。次のように書かれています。
一方の極には、自分の存在が承認されず、”いてもいなくてもいい、むしろいないほうがいい”ものとして扱われ、そこから翻って、自分でも自分のことを虫けらのようにしか思えないかのような、卑小感を味あわされる、という事態がある。いじめや虐待などは、こうした事例の典型である。
そして、他方の極には、あたかも自分の身体の一部であるかのように自分の存在を支えていたものを、理不尽に奪われ、存在の部分的な逸失を強いられる、という事態がある。恋人や子どもを殺された人は、大切なものを奪われた、というにはとどまらない、恋人に対して-パートナーとして-ある、子供に対して-親として-ある、ということは、対他的存在としての・その人自身の存在を構成していた。そうした人にとって、かけがえのないパートナーを奪われるということは、対他的存在としての・その人自身の存在の深部が大きく剔りとられるということであって、大事な持ち物を奪われるよりも、もっと深刻な悲嘆を生む。(p174)
右のように素描される悪しき行為・態度によって、理不尽にも痛めつけられる苦悩を、誤解の誘いやすい言い方ではあるが、「いわれなき苦悩」と呼ぶことにする。(p175)
全体として、最も多くの人の・よりいわれなき苦悩が減るようにするものは、善い(p192)


最後の一文が著者のさしあたって考える道徳原理で、「最大多数の最小苦悩」と名づけています。「たしかに”悪の増大の防止に寄与するのが、善である”というだけでは、あまりにもトリヴィアルに響く。しかし、善悪という、普遍的ではあるが記述的な意味の希薄な評価語について考えるときには、この瑣末な原点に錨をおろしていなければならない。(p170)」というわけです。一番確実な原理なのでしょう。「最大多数の最小苦悩」は、功利主義の「最大多数の最大幸福」をもじったものです。このように定式化すると、功利計算ならぬ苦悩計算が可能となるわけです。

さて、この原理が有効に働くか否か。著者によれば、倫理学も科学も、
具体的判断(観察)と抽象的原理(理論)との間の最大限の整合性(反省的均衡)を求めていく、という点で、科学と倫理学は同じである。(p180)
ということで、実際の事例を若干考察されています。所得格差の問題と、中絶の問題をごく簡単に考察されています。中絶の問題は功利主義でも検討されていて、功利主義では中絶容認の結論の方が多いと思うのですが、著者は「”最大多数の最小苦悩”という命題から、”中絶するのが善い”という結論が出てくることは、きわめて考えにくい。(p204)」としています。

【初めての分析哲学】で「《科学的真理》なるものも、(中略)特定の限定された人生観・価値観の「共有」のうえではじめて”正当化”される、「コミュニケーション」の所産かつ「コミュニケーション」の枠組みという以上のものではない。(p357)」「「コミュニケーション」という語に総括される、そのつどの言語的な呼応は、一見「対等」なやりとりと映る。しかし、その「コミュニケイティヴ」な「呼応」は、特定の「信憑性」を共に当てにすることにおいて、それを当てにすることを求められ・求めることにおいて、実は既にそのつど「非対等」な間での、対自然的カツ間柄的な《権力》過程でもある。(p358)」と書かれています。この文章もふまえて考えるなら、コミュニケーションしなくては生きていけない人間の、しかしそれゆえに傷つく人間の倫理というものを考えていらっしゃるのでしょう。

とはいっても、何を言っても通じないという困った人もいるわけで、著者も
つねに・そのつど、他者に対して-何ものかとして-ある、ということは、”目下の間柄を甘受して耐えねばならない”ということではない。そのつど対他存在であるということは、むしろ、あなたが意を決して「もはや呼応不能」と踵をかえすのを支える他者もそのつど近くにいるということをも意味する。(p219)
ということですから、まあ、常識的に考えて対応を、ということでしょう。

今後、いろいろなことを考えていく上で、参考になると思います。功利主義の原理より望ましいかどうか、実際の事例とつき合わせて考えていくことになるでしょう。

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