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zoom RSS 【論より詭弁 反論理的思考のすすめ 香西秀信著 光文社新書】

<<   作成日時 : 2007/06/29 00:17   >>

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反社会学講座で紹介されていたので読んでみました。

反社会学講座で、
 そういう論理バカのかたがたにおすすめの(もちろんそれ以外のかたにも)、とても面白い本が出てたので、紹介しておきましょう。香西秀信さんの『論より詭弁』(光文社新書)という本です。私は、論理的な正しさはほどほどにして、おもしろさを重視しようね、とやさしく語りかけてますが、香西さんは甘くないです。いきなり冒頭で、「論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である」「議論のルールなど、弱者の甘え以外の何ものでもない」。辻斬りですよ。出会い頭にバサーッ。
面白そうではないですか。

力で勝てないので理屈で、という一面が確かにありますが、それにしても「弱者の甘え以外の何ものでもない」とはどういう主張なのでしょうか。

読んでみますと、それほど奇妙な主張をしているわけではないのです。

力関係が対等でないものの間で、そもそも対等な議論が成り立つのだろうか。例えば、ある会社の入社試験の面接で、人事担当者と受験者が、その会社のCM内容をめぐって議論になった。人事担当者は議論を打ち切り「これはわが社の方針なのだから、それに従えないのなら入社は諦めてもらう」と宣言した。これに対し、大学でディベートで鍛えあげたその受験者は、相手の非論理的思考を避難し、こう金切り声をあげた。「それは虚偽だ、詭弁だ、『力に訴える議論』だ!事柄の是非を突き詰めて議論せずに脅迫で自分の意志を通そうとするのは思考の停止だ!」ーもちろん、人事担当者は、「ああ、詭弁で結構だ」と、彼を退室させようとするだろう。(p13)
この状況なら人事担当者の対応は当然のように思えてきます。会社の方針に従えない人間を雇わないのも人事担当者の仕事でしょう。でも『力に訴える議論』というのもその通り。しかし、現実社会では『力に訴える議論』は、どこにでも見られます。

われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。れわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。(p14)
まあ、そういうものです。働き始めるとそんな場面には頻繁に出くわします。

著者はレトリックを専門とされているようで、そのレトリックについて以下のように書かれています。
私の専門とするレトリックは、真理の追求でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得の手段の発見を)その目的としてきた。このために、レトリックは古来より、非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等では無いことを、冷徹に認識してきたからである。自分の生殺与奪を握る人間を論破などできない。が、説得することは可能である。先ほど論理的思考力について、「弱者の当てにならない護身術」と揶揄したが、天に唾するとはこのことで、レトリックもまた弱者の武器にすぎない。強者はそれを必要としない。(p15)
レトリックも論理的思考力も、弱者の武器。

ということで、
本書は、論理学(非・形式論理学)で虚偽あるいは詭弁と名指されてきた論法を主な材料として、論理的思考をレトリックの立場から批判的に検討しようとするものである。(p18)


まずは発生論的虚偽と呼ばれるものが扱われます。発生論的虚偽とは「ある情報が得られた方法と、その情報の真偽は、まったく別の問題で、この両者を混同してはならないということだ。(p19)」確かに、その通りなのですが、しかし、現実の世界では医学でもConflict of Interestを論文に書かなくてはいけません。どこかの企業から研究費を出してもらった研究で、その企業の扱っている商品に良い結果が出ても、それをそのまま信用してよいかどうか。私個人は少し懐疑的になります。その情報の解釈に何か先入観があるのではないか、と疑ってしまいます。この場合、私は明らかに発生論的虚偽をおかしています。

しかし、イソップ童話の尻尾を無くした狐の話(リンク先の最後の方、60にあります)を出して、著者が言うには、
狐たちは、ただ、自分たちにとって本当に尻尾が必要かどうかだけを考えればいいのだ。−こんな馬鹿馬鹿しいことを教えるのが論理的思考である!私はこんなふうに論理的であるくらいなら、イソップの智恵とともに非論理的でありたい。(中略)いかに「発生論的虚偽」と非難されようとも、こんな場合には、邪悪な動機とともにその忠告を葬り去って、それで何ら行き方を誤ることはない。(中略)もし人が非論理的な判断をして、それで痛くも痒くもないというのであれば、そのときは論理的思考の方が何か大きな間違いを犯しているのである。(p21-22)
その通りで、Conflict of interestを明記していない論文の結果を懐疑的に受け取って発生論的虚偽とか頭が堅いとか非難されても痛くも痒くもありません。

反論理的思考と副題がついておりますが、このように十分に説得的な思考方法が解説されています。

印象的だったのが、文章読本としては定番とされている(と思う)「理科系の作文技術 木下是雄著 中公新書」で述べられている仕事の文書を書くときには、事実と意見(判断)の区別を明確にすることがとくに重要である。(理科系の作文技術 25版p7)ということが否定されており事実と意見は区別できないと主張されています。
a 冷蔵庫の中にビールがあった。
b 冷蔵庫の中にビールがなかった。

この場合も、a、bともに、事実として検証できる。冷蔵庫を覗けば、確かにビールがあり、ビールがない。だが、aの場合は、こちらの考えとは無関係にビールが存在するのに対し、bは、こちらが冷蔵庫の中にビールがあることを期待ないし予想しなければ、そもそも「ビールがない」という「事実」そのものが発生しない。つまり、「ない」ということは検証可能でありながら、それは事実ではなく語り手の観念にすぎない。(中略)ビールだけでなく、ジュースも、牛乳も、バターも、チーズも、果物も、何でも「ない」ものにすることができる。こういうものを、事実と呼べるだろうか。(p56−57)
事実はいくらでも意見として機能する。われわれは事実を口にするときでも、それわれわれの意見として、何らかの意味で聞き手を説得しようとしているのである。(p58)
テリー・イーグルトンが述べた「事実の陳述は、結局、事実ではなく陳述である。事実の陳述もひと皮むけば、そこには数多くの価値判断がひそんでいる。」という言葉が紹介されていました。

普通は、禿げ頭の区別と一緒で事実(あるいは、事実とされる概念に近い意見)と意見(普通の意味での意見)は多くの場合、区別できるのではないでしょうか。しかし、そういう場合でも、話し手が述べた事実の背後には話し手の意見を指摘することは可能です。

例えば、フリーで読めるRandomized Phase III Trial Comparing Irinotecan/Cisplatin With Etoposide/Cisplatin in Patients With Previously Untreated Extensive-Stage Disease Small-Cell Lung Cancerでは、肺癌の2種類の化学療法が比較されています。生存率や毒性は比較されていますが、両方の治療法の金額の比較はありません。金額の比較は今のところ重要ではないと話し手は考えているのでしょうし、読み手である私も金額には興味がないのでそれで全く問題ありません。命の問題の前ではどちらが金がかかるかは小さな問題である、と考えています。

しかし、世の中には別の考えの方もいらっしゃるでしょうから、かかる金も考慮に入れなければ治療法を選べないだろうという場合もあるでしょう。その場合、紹介した論文は書き手・読み手の意見を反映した論文と受け取られてしまう可能性があるわけです。

こんな簡単な例もありますが、科学論における実在論・反実在論の議論に「事実の陳述は、結局、事実ではなく陳述である。事実の陳述もひと皮むけば、そこには数多くの価値判断がひそんでいる。」を絡めていくとどうなるか、なんて考えると難しくなってくるわけです。

以上、主に第1章を読んで思うところです。

章題を紹介すると、「第1章 言葉で何かを表現することは詭弁である」「第2章 正しい根拠が多すぎてはいけない」「第3章 詭弁とは、自分に反対する意見のこと」「第4章 人と論とは別ではない」「第5章 問いは、どんなに偏っていてもかまわない」刺激的なものもいくつかありますね。

どの章も楽しく読めます。議論に強くなれる気がします。でも、
議論に世の中を変える力などありはしない。もし本当に何かを変えたいのなら、議論などせずに、裏の根回しで数工作でもした方がよほど確実であろう。(p9)
ま、そのとおりなのですが、多数派工作のための議論ということで。

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【生き抜くための数学入門 新井紀子著 理論社】
【つっこみ力】とか【論より詭弁】とかを取り上げました。前述の2冊では、理屈が通っていても、面白さがないとか不純な動機でモノを述べているとか、そういうことで意見を聞いてもらえない・認めてもらえないということがあることに重点がおかれているのだと思います。しかし、だからといって論理的でなくともよいということにはならないわけです。今回とりあげる【生き抜くための数学入門】は、論理的に考えることの重要性を認識させ、そのやり方を数学を通して紹介する本です。 ...続きを見る
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2007/07/05 18:06

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