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zoom RSS 【格差社会と教育改革 苅谷剛彦・山口二郎著 岩波ブックレット】

<<   作成日時 : 2008/07/06 00:36   >>

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2007年6月25日に北大で行われた苅谷氏の講演をもとに作成されたそうです。講演は、山口氏が研究代表者を務める科研費のプロジェクト「市民社会民主主義の理念と政策に関する総合的考察」の公開行事として行われたものとのこと。ホームページはこちら

苅谷氏の著作は、以前に【欲張りすぎるニッポンの教育】【学校って何だろう】を取り上げました。

本書では、現在議論されている教育改革の問題点について、わかりやすく解説されています。

苅谷氏は、「格差」という言葉で”「不平等社会」が念頭にある(p4)”とのこと。それは、
不平等の問題は、いわゆる社会正義、ジャスティスの問題ともかかわってきます。これを「格差」というふうにだけとらえると、その辺が曖昧になってしまう。
からだそう。確かにその通りです。

で、その平等・不平等ですが、よく言われる結果の平等、機会の平等について苅谷氏は
むしろ放っておいたら格差が生じてしまうことに対していかにフェアな競争を準備するか、つまりスタートラインを整えるために、教育のところでしっかりと、家庭環境などによる差をなるべく縮小しておくことが大事なのだ、それが結果の平等という「配分の平等」には直接つながらないけれども、チャンスの平等につながるのだ、という考え方なのです。(p6)
私、ちょっと誤解をしておりました。機会の平等とは教育が終わり社会に出る段階で、不平等を作らず機会を与えるかということなのですね。

再生会議の議論の問題点が指摘されています。
小さな規模の学校は効率的ではない、つまり子供一人当たりの教育費がかさんでしまいますから、なるべくそういう学校を減らして、学校の統廃合を進めて、そこで浮いた予算を必要なところに付けていきましょう、というのが「メリハリ」の一つの意味です。
もうひとつは、学校や教員を評価して、同じように予算を配分するのではなく、頑張っているところ、よくやっているところ、あるいはよくやっている先生には予算をつけるというような、そういう「メリハリ」のつけ方です。学校選択制と予算配分を結びつけるバウチャーのような制度はその典型です。
これはやはり東京を中心にした発想です。(中略)
大都市圏であれば、学校選択によって競争するということにも一定の意味合いがあるのかもしれませんが、それがいったい全国でどれぐらい現実的な発想なのか、実現可能なのかについては、十分な吟味がない。(p10-11)
省略したところには、山間部の僻地や離島などは小学校の統廃合には限界があると指摘されています。

何かを変えるとほかのところに影響が出ることもあるわけで、教育では「メリハリ」をつけることで、特に田舎で問題が起きるだろうということなのでしょう。話が教育からずれますが、医療では臨床研修制度が導入されてから地方の病院に研修医が集まらずてんやわんやになっているそうです。事の善悪は別として、何か変えれば他も変わる、というのは世の常。

で、その変わるだろうことは、
このように「選択」ということが言われると、教育は言わばサービスとして、つまり「受益」というかたちで受けとられるようになるということです。そうすると単に学校選択の制度が採り入れられるというだけではなくて、それと連動して、教育に対する考え方や価値観が変わっていくというような副作用が出てきます。教育のもつ公共性やパブリックな役割よりも、個人の利益を最大化するようなかたち、受益としての教育という発想が強まることで、「個人化」が進んでいく。自己責任なり、あるいは個人のためにという発想がますます強まっていくのです。(p18)
(中略)
であるからこそ、「徳育」や「愛国心」というものが裏返しで登場してくるわけです。社会全体がバラバラになったら困るから、それをどうやって統合するかというときに、一種のナショナリズムですね、(以下略)(p19)
うちの町内会には、小学校や中学校で学校から配られる連絡紙のようなものが回覧板で回ってきます。私には地域で子供を育てる姿勢が見てとれて、これは大変好ましいと思っています。町内の結びつきを感じます。これが学校選択制となったなら、回覧板で小中学校の様子を知らせなくなってしまうわけで、地域の結びつきがどうしても希薄になってしまうのではないでしょうか。さて、日本中でそんなことが起きたなら、愛国心をもってしても日本の社会をまとめることができるのかどうか。【失敗の愛国心】で鈴木氏も書いてましたが、強制されたら反発するだけ。山口氏はご自分の専門の政治学の観点から、「学校選択制という問題は、政治的にもすごく意味があると思っています。コミュニティや地域、国家といった、私たちが帰属している政治的な単位をどう考えるのかという問題につながっていくのですよ。(p56)」さすがに町内会という言葉は出ませんが、私が考える具体例は町内会です。

日本の教育予算の考え方について書かれており、これが参考になりました。教育予算について書かれているところをいくつか引用しますと、
通常先進国では教育予算は、子ども一人当たりの教育費を決めて、それを地方ごとに配分していきます。ところが日本の場合にはどうしたかというと、一学級当たりの子どもの上限数を決めました。上限を決めて、それ以上になっているクラスを二つに分けるという考え方をしたのです。(中略)そしてそういう学校が何校あるかトータルで考えれば、都道府県の教育費が人件費に関して計算ができます。(p26-27)

この仕組みは、子どもの数、学校の数、教員の数という三本立てで予算を考える仕組みです。子供の数だけで考える仕組みではありません。これに対してバウチャーというのは、子ども一人当たり―これをパーヘッドといいます―で考える考え方で、基本的に、資源配分の哲学が違うのです。哲学が違うのにバウチャーを入れたらどうなるかというのは、大問題になります。(p28)

たとえば僻地の学校は、何人規模だったら、子ども一人当たり全国平均と比べて何倍の予算をかけるのかということを、先生の数が自動的に決まる仕組みではないかたちで考えなければならなくなります。(p34)
予算の考え方から変えないといけないとなると導入は大変ですね。

そもそもバウチャー制度はアメリカ、イギリスだからこその制度らしく、
おしなべてアングロサクソン系の教育制度はうまくいっていません。これはアメリカ、イギリスが典型なのですが、教育制度が持っていた問題は根深かった。だからアメリカやイギリスがとったバウチャーや学校選択制など、ああいう制度はまさに劇薬だったし、それが必要とされたのです。
ところが、日本の教育は国際比較でみると、そんなに大きな問題を抱えていなかったのです。(p40)
無理すること無いんじゃないかな、と覆います。

教育制度改革議論の問題点がよくわかる本です。

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