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zoom RSS 【理性はどうしたって綱渡りです ロバート・フォグリン著 野矢茂樹・塩谷賢・村上祐子訳 春秋社】

<<   作成日時 : 2005/10/08 23:18   >>

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哲学を扱ったものの翻訳ものは硬い翻訳調の日本語である場合が多く、読むのに苦労することが多いと思います。しかし、この本は軽妙な訳文で読んでいて苦労しません。本書の対象として”必ずしも哲学を専門としない、一般的な知的関心をもった読者(p2)”を想定しているためもあるでしょうが、なにより訳者の努力でしょう。内容は、形而上学(本書によると、この世界を支える普遍の構造を純粋に合理的に(ア・プリオリに)説明しようと試みるもの(p8))や過激な懐疑主義・相対主義に対する批判が中心です。どちらも”おおもとの姿勢を共有(p8)”しており、それらは”理性を野放し(p8)”にしているというのが批判の要点であると理解しました。難しい本を読みすぎて身動きが取れなくなった方に、お薦め。

第1章では、無矛盾律(あることが成立しており、かつ成立していない、ということはない(p30))を否定する立場、逆に究極の法則として肯定する立場を紹介し、それぞれに無矛盾律の身分に対する誤解があることを解説しています。

無矛盾律を”ある事実が存在し、かつ存在しないこと(成立し、かつ成立しないこと)は可能ではない(p32)”と言い換えることで、無矛盾律が事実に対する言及となり、”世界それ自身のとりうる形式に制限を設けるもの(p33)”、と考えられてしまいます。無矛盾律を否定する立場でも肯定する立場でも、”無矛盾律が正しいのであれば、変化(真の変化)は不可能となる(p38)”という”根本的なドグマを共有している(p38)”そうです。”変化は実在する(p35)”と考える人は無矛盾律を否定する立場をとります。逆に”無矛盾律を最高の拘束力(p36)”を持ったものとする立場からは、”変化は不可能である(p35)”という結論が出てきます。さて、どちらが正しいのでしょうか。著者は真理表による説明で、無矛盾律を否定する立場には、”矛盾によって述べようとしていることが何であるにせよ、それは偽でなければならない(p47)”し、無矛盾律を肯定しかつ最高の拘束力を持つと考える立場には、無矛盾律は”何にも語っていない(p47)”と述べます。どちらも無矛盾律を”世界に対してはいっさい制約を課さない(p48)”、”無矛盾律は変化の可能性になど、いささかも関わっていなかった”ということを理解していないとされます。それでも無矛盾律を否定する人たちがいるでしょうが、そういう人たちに著者が言った言葉が秀逸。笑えます。無矛盾律を否定する人も常に否定しているわけではないって事がわかります。

第2章ではウィトゲンシュタインが関連し、”無矛盾性が保証されていない規則体系を使うことがしばしば極めて合理的(p60)”であるということと、”矛盾があると分かってからでも、なおその規則体系を使い筒けるのが正当な場合もある(p60)”という主張がされます。結論だけきくと第一章とはまるで反対。。著者が言うには、第1章では命題(主張・言明)についての話、第2章では規則についての話なんだそうです。

第3章ではカントが関連し、”経験に構造を与える概念的道具立て(概念枠あるいは概念図式と呼ばれるようです)を、経験ではどうにも答えられない問題に適用すると、どうしたって知的厄災に陥る(p97)”ということが解説されます。経験という制約を離れると、”いかなることであれ、もっともらしく主張し、あるいは論駁したければ論駁するという、空疎な駄弁に終始せざるをえない(p111)”、このとき理性は弁証的(p111)になっているそうです。弁証的幻想という言葉で、”何かが存在しうるためにはその存在を支える最終的な根拠がなければならない、と考える一方で、これが最終的な根拠だと見てとったとたんに、(中略)その根拠をさらに求めねばならないと感じ出す(p114)”ことを表現しています。この法則の原因となる法則、の原因となる法則・・・・の無限の連鎖というわけですね。

第4章では、デカルト主義の懐疑論・ヒュームの帰納法に関する懐疑論・ピュロン主義の懐疑論が取り上げられます。このような哲学的な立場がどうして生まれてくるのか、そうしたことを著者は理解するために、「知っている」ということを検討していきます。あることを知っているとは、”正当な理由ないし根拠に基づいてあることを信じていること(p162)”であり。正当化は、”知識の申し立てに対するありうる対立仮説を排除する(p163)”ことです。正当化の特徴の一つとして”吟味のレベルを高める(p163)”ということが述べられます。理性だけで吟味のレベルを上げることで、さまざまな対立仮説を検討することになり、挙句の果てに懐疑論に行き着くというわけです。人工知能のフレーム問題と似たところがあると思いました。どんな状況も検討しないと動けないロボットと、どんなものも疑ってしまって何も言えない懐疑論者と似てるような気がします。

第5章では、著者は、”解答不可能に思われる懐疑論的問題があり、そしてまた人間の知性にも弁証的になってしまう傾きがあるということを認め、それでもなお、科学が進歩してきたというこの疑いえない事実をどう説明すればよいのか。(p185)”と今までの議論の問題をまとめます。その答えは、”二つの要素が含まれるでしょう。ひとつは、(中略)、私たちの観念が理性以外の要因によって引き起こされることを認めるものです(私たちの観念を自然に対して同調させる力を持つのは自然のほうと認めること)。(中略)二つめは、なんらかの仕方で、思考されたことを世界の対象として具体的に実現し、そうして思考と世界の間の壁を取り払うことです。(p185)”と述べます。「世界の対象として実現」といっても難しいことではなく、ドアが風で開いてしまうときに、木片を差し込んで開かないようにするといったものです。”「ドアを固定しようという思考」が木片という世界の事物を用いることで実現され、しかしそれでもドアが開いてしまうのであれば、つまりその思考はまちがいだったということになるわけです(p186)。”こんなこと普通にやってることではないですか。

第6章では批評についての話題が出てきますが、これは省略しましょう。

第7章は結語です。懐疑論的疑いが役立つものであることも解説されます。”懐疑論的疑いのもつ謙遜のちからがなかったら、私たちの思考が本性による限界を超えて幻想の王国に行ってしまうのを、どうやっても止めることはできません(p221)”というわけです。著者の述べたいこともまとめられています。”私たちが不整合に陥ることを、私たちが弁証的幻想に囚われることを、そして私たちが絶望的な懐疑論に屈してしまうことを防ぐ唯一の―少なくとも主たる―手立ては、この世界とかみ合うようになること、そうして私たちの思考をもはやそれ自身は思考ではない、思考を超えた制約の下に置くこと(p223)”。難しいことではなく、ドアに木片をはさめることというわけですね。

読み終えて我が身を振り返れば、私の理性は綱から落ちっぱなしです。弁証的幻想や懐疑論に囚われっぱなしです。そんなことがもっともらしく本に書いてあると、なるほどと納得しちゃうんです。でも、きちんとした社会生活は送れています。日常生活に戻ると弁証的幻想やら懐疑論なんて忘れてしまいます。引用しませんでしたが、第5章でヒュームが言った通り。

明日からはドアに木片はさめて考えましょうか(もちろん比喩です)。

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2005/12/04 01:57

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