三余亭

アクセスカウンタ

zoom RSS 【はじめての分析哲学 大庭健著 産業図書】

<<   作成日時 : 2006/03/27 18:50   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 2 / コメント 0

平成2年初版の古い本です。だいぶ前に読んだ本ですが、久しぶりに読み直してみました。まえがきによると「哲学入門にもならないジャーナリスティックな見取り図(pii)」「軽いノリで読み進めていただければ、著者としては本望である。(pii)」ということです。軽いノリのためなのでしょうか、言葉遣いは独特です。”後書きに代えて”では、「「科学哲学」的に分析哲学を紹介することは、誰かオッチョコチョイがやらないと拙い。そうしないと分析哲学のゴジャゴジャが、フーコーの権力論ともハーバーマスの「基礎づけ」神経症とも、繋がってこない。(p345)」と書かれており、その観点から、論理実証主義vsプラグマティズム(まえがき piii)を中心とした「見取り図」が書かれていきます。

著者の専門は倫理学とのことで、その方面の問題意識が背景にあるためか、かなりクセの強い入門書です。ということで、著者が持っているだろうと私が思う問題意識の紹介を中心に。ですから、この後は分析哲学の入門書とは思えないようなことばかり書いていきますが、本当はクワインを中心とした分析哲学の「見取り図」として分かり易い本だと思います。

序章で、「科学に領導された《知》のシステムは、二重の意味で《権力》システムとして機能している。(p9)」と著者は言います。その2重の意味とは、「「科学的」な言語を習得してから物を言え。(p9)」という、知識のある者にしか持てない知識がない者の発言を封じる権力であり、もう一つ「「認識の対象を、操作しうるモノと扱う」力(p11)」という自然や人間を操作対象としたという意味での権力、だそうです。少し後のページに書かれている次の文章の方がわかりやすいかもしれません。「自然を「操作対象」にすると同時に、科学もわからん俺らぁナス・カボチャを「操作対象」にした(p14)」「近代化とともに加速度的に昂進した「自然の生命活動の支配」は人間の生命活動をも「労働力商品」の供給過程としてのみ調教する支配でもあった(p15)」

ナス・カボチャを「操作対象」とすることは、実際には、「先端の研究者や高級技術官僚を頂点とし、学生・生徒を末端とする、人間の間での巨大な支配のシステムでもある。しかも、この支配は、嫌なことを無理にやらせるような前近代的な専制的権力とは異なって、自然を利用し尽くして「より快適な生活」を保証する力として、自発的に分掌されていく(p14)」ということのようです。良いか悪いか別にして、言ってることはわかります。

《知》のシステムの「操作対象」が自然と人間であることに関して、自然を操作対象としていることだけを問題視するわけにはいかないと著者は言います。

「個々の網膜細胞や神経細胞は、物理・生理的に必然な反応をしているけれども、(中略)色の認知というメンタルな出来事が起こっている、と。だとすれば、個々の物体は物理的に必然的な運動をしているだけだが、地球全体レベルでマクロに見れば、チキュウさんの心が動いている、と。(中略)」(中略)真面目に科学を追及した果てに、そういう発想が大いに出てくる余地がある。(中略)だからこそ、逆に言えば、今の思想状況は凄く危ないとも言える。(p16−17)」こういう発想を「ウルトラな形而上学(p17)」と著者は呼んでいますが、「そうした形而上学こそが、自然への暴力、人間への権力と化した権代の知を克服する唯一の道だ、みたいな話しになってくると、これは危険なことになりかねない。といいますのもネ、そうした形而上学の手にかかると、生命によってしか生産できないものを「商品化」することによって再生産されている社会への問が、そっくり<生命>の絶対化という、天上世界での話に回収されてしまうんです。(p17)」

具体的な例が無いと、何のことやらさっぱりわかりません。天上世界って何のことでしょうか。後ろのほうにあった次の記述が、具体例なのだと思うのですが。
「悪質の形而上学者たちは、もともと「科学」について行けなかった怨念でもあったのでしょうか、真面目な科学者たちが立ち往生しているのを見て快感でもおぼえたかのように、やたら張り切りはじめるのです。(中略)そういう人たちは、まことに自分勝手な連想ゲームだけによって、例えば「エネルギー」といった語を、どんどん水増しして使っていくのです。(p56)」「20世紀初頭において、当時の科学の概念を借用し水増しして、目一杯意味を膨らませて、すべてを説明してしまう図式を発明した人々、とはどんな人々だったのでしょうか。それは、「ロシアン・マルキスト」であり、「フロイト主義者」であり、そしてやや後れて、かつローカルには「アーリア主義者」でありました。(中略)マルクスを担ぎ、あるいはフロイトを担いだ「図式」発明者たちは、マルクス、フロイトにも見られた「科学の権威」へのもたれかかりだけを全面化し、当時の科学の一定の行き詰まりに便乗したのであります。(中略)彼らは、”自分たちは、近代科学の成果を継承しつつ、その先を開拓しているのだ”と、「科学」の名において自認したのであります。しかも、これが非常に悲惨なことなのですが、そうした騙りが、未だに言葉になりえない吐息を十把一からげに、「科学」の名において”組織化”いたしました。まさしく<治療者−患者>、<前衛−大衆>という知の権力のもとで、であります。(p57−58)」「すべて論理的コミュニケーションを一方的に断ち切った「隔離・収容」を正当化する思想であった(p59)」
ということです。ちなみに、マルクスやフロイト当人に対しては、その業績は評価しています。

話が飛んじゃうんですが、悪質の形而上学者の話からオウム真理教を連想してしまいます。閉塞感から「科学」を含む、或いは超える体験を求めるというのは、悪質の形而上学と著者が呼ぶものと共通するように思います。

話を戻しますと、哲学こそが、二重の権力と化した知を批判しつつ、形而上学に走らない真の知を基礎付ける、とは著者は言いません。「言うところの「真の知」の探求ってやつは、一皮むけば「単に通用しているだけの知」が通用するときの仕掛けと全く同じ仕掛けを用いる。(p18)」加えて、「解体されるべき権力と、コミュニケーションを支えている力と、一体どこで区別するんですか?(p21)」と書いています。コミュニケーションと権力の問題は、結びに代えて、や、文献案内でも書かれています。

本論では、クワインが中心に解説されていきます。第1章は哲学の変遷と分析哲学、第2章は経験主義の二つのドグマ、第3章は「科学の成功」・指示・真、という題です。言語論的転回、分析的/総合的の区別、ホーリズム、パラダイム論との関連、指示の問題、概念枠などが解説されています。

「軽いノリで読み進めていただければ、著者としては本望である。(pii)」と著者が書かれている通り、軽いノリで読んでいけます。細かな議論は飛ばしたりしているようですから、話は理解しやすいと思います。個人的には、デイヴィッドソンのところは、少しややこしかった印象です。

軽いノリで進んだ話は、「《科学的真理》なるものも、(中略)特定の限定された人生観・価値観の「共有」のうえではじめて”正当化”される、「コミュニケーション」の所産かつ「コミュニケーション」の枠組みという以上のものではない。(p357)」「「コミュニケーション」という語に総括される、そのつどの言語的な呼応は、一見「対等」なやりとりと映る。しかし、その「コミュニケイティヴ」な「呼応」は、特定の「信憑性」を共に当てにすることにおいて、それを当てにすることを求められ・求めることにおいて、実は既にそのつど「非対等」な間での、対自然的カツ間柄的な《権力》過程でもある。(p358)」という文章につながります。

この文章はあまり軽いノリではすまないような気もします。どこもかしこも《権力》過程だらけということです。何か主張しても、コミュニケーションから生じる《権力》過程にとりこまれてしまいます。知識が無い者は利用されるだけです。この状況、見田宗介氏の「貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外が、貧困の概念である。」(現代社会の理論 岩波新書 1996年第1刷 p105)という言葉をもじれば、「知からの疎外の以前に、知への疎外がある。この二重の疎外が、知の支配である。」

読み終えて社会学者の言葉を思い浮かべる、哲学の入門書としては独特だと思います。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
【社会学入門 人間と社会の未来 見田宗介著 岩波新書】
同じ著者による「現代社会の理論」という岩波新書があります。今から10年前の1996年10月21日に第1刷が出てます。その後書きで、「10年に1度くらいずつ、このように豊饒化された増訂版を公刊してゆくつもりである。(p183)」と書かれており、「はじめての分析哲学」を読んだ際に、再度「現代社会の理論」を斜め読みをした際にこの文章をみつけ、そろそろ10年になるがどうなったんだろうかと思っていたところ、「社会学入門 人間と社会の未来」が本年4月20日第一刷として出版されました。この新書の後半は「... ...続きを見る
三余亭
2006/05/09 14:11
【善と悪 倫理学への招待 大庭健著 岩波新書】
【初めての分析哲学】【私はどうして私なのか】の著者による新書。カバーには、「道徳的にみて「善い」「悪い」という判断には、客観的な根拠はあるのか。(中略)ソクラテス以来の大問題を、最新の分析哲学の手法を用いて根底から論じ、倫理学の基本を解き明かす。」と書かれています。こんな風に書かれると、大上段に構えた本だという難しい印象を与えてしまいますが、専門用語がごちゃごちゃ並んでいるわけではありませんので、簡単にとは言いませんが、理屈が好きな方はそんなには苦労せずに読めるのではないかと思います。 ... ...続きを見る
三余亭
2007/01/15 18:19

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
【はじめての分析哲学 大庭健著 産業図書】 三余亭/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる