三余亭

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zoom RSS せいすいいえいこさんのコメントに

<<   作成日時 : 2007/12/08 01:16   >>

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今まで忙しくって、何もレスポンスがなくてすいません。
せいすいえいこさんから、「歴史とは何か」にコメントをいただきまして、また、 【「科学的」ってなんだ! 松井孝典・南伸坊著 ちくまプリマー新書】にもまたコメントをいただきまして、ありがとうございます。

さて、Wikipediaの史料批判を読ませていただきました。

私は「歴史(あるいは歴史学)は、どうあるべきか、どういうものか」ということについては深く考えたことはありません。私のブログの「歴史とは何か」は、そんな門外漢がちょっと本を読んで感想を書いた、それだけのものです。ですから、史料批判について何かコメントをしたとしても、門外漢の意見であり全く的外れ、かつ失礼なものになる可能性が高いと思いましたが、ちょっと思うところを書いてみようと思った次第です。笑って読み流してもらって構いません。

私の読書傾向が科学(自然科学)に傾いている、というのはその通りです。そんな私も人文科学というか、特定分野の哲学は少し面白いと思っています。積ん読状態になっている、ブルーノ・ラトゥールの「科学が作られているとき」や「科学論の実在」、イアン・ハッキング「何が社会的に構成されているか」など、いつかブログに書きたいですね。(大作だからきついな。時間がないな。)

話がずれてしまいました。史料批判とは以下のようなものだそうです。
史料批判(しりょうひはん、 独語Quellenkritik)とは、歴史学の研究上、史料を用いる際に、様々な面からその正当性、妥当性を検討すること。(中略)史料批判は一般に、史料の外的な条件を検討する外的批判と、史料に記された内容を評価する内的批判とに分けられる。


【歴史とは何か】で引用したところが史料批判とのかかわりがあるのだと思います。
「歴史家の行うすべての観察の中へ、どうしても、歴史家の見方というものが入り込んで来ます。(第3章p101)」

「観察の手続きが、観察されているものに影響を与え、変化を与える(第3章p101)。」

「歴史家は、歴史を書き始める前に歴史の産物なのです。(第2章p55)」

「歴史を研究する前に、歴史家を研究して下さい。」「歴史家を研究する前に、歴史家の歴史的及び社会的環境を研究して下さい。」(第2章p61)」

歴史での客観性という言葉は、普通の客観性とは違う意味があり「歴史における客観性―まだこの便宜的な言葉を使うとしますと―というのは、事実の客観性ではなく、単に関係の客観性、つまり、事実と解釈との間の、過去と現在と未来との間の関係の客観性なのです。(第5章p178)」

客観的な歴史家とは、「第一に、その歴史家が、社会と歴史とのうちに置かれた自分自身の状況からくる狭い見方を乗り越える能力(中略)を持っているということを意味します。第二に、その歴史家が、自分の見方を未来に投げ入れてみて、そこから過去に対して(中略)深さも永続性も優っている洞察を獲得するという能力を意味します。(第5章p183)」


引用した部分は、歴史家が行う史料批判にも、「歴史家の見方が入り込む」ということを主張している、と考えられます。つまり、外的批判や内的批判にも”歴史家の見方が入り込む”、ということ。これが本当なら、史料批判なんて当てにならんということになるでしょう。この点が気になられて、せいすいえいこさんからコメントをいただいたのだと思って、以降書きます。

日常的なレベルでは、史料批判に書かれていることで真偽を決定するということで全く問題ないと思います。そのようにしなければ生活できないでしょう。ですから、「歴史とは何か」に書かれていたことも、史料の真偽というよりは、さまざまな資料を総合した解釈における問題への注意喚起と私は受け取っています。

というのは日常レベルの話。

史料批判では様々な観点から正当性を検討するので、観点の選び方の恣意性により史料批判の時点で歴史家の見方が入り込むと主張することは可能なのかもしれない(いちゃもんレベルであるが)。また、ブルーノ・ラトゥールの「科学が作られているとき」や「科学論の実在」、イアン・ハッキング「何が社会的に構成されているか」での議論で使われている「科学」という単語を歴史と言い換えても通用するかも(史料自体というよりは歴史ということになるが)?あるいは(私は嫌いなのだが)社会構築主義からの批判も考えられよう。

以上、素人がちょいと思っただけのことです。

あまり、まとまりがよくないな、と自分でも思います。

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【哲学塾 歴史を哲学する 野家啓一著 岩波書店】
以前に、せいすいえいこさんからコメントをいただき、いろいろと考えさせられることがありました。 せいすいえいこさんからコメントをいただいた記事など、以下をご参照ください。 http://cuttlefish.at.webry.info/200507/article_3.html http://cuttlefish.at.webry.info/200712/article_2.html http://cuttlefish.at.webry.info/200712/article_3.h... ...続きを見る
三余亭
2008/06/12 01:09

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
どうも。こちらに書いていいかどうか迷いましたが、書きます。
文学は、表現内容が「事実」かどうかは、特に問題になりません。歴史は、「事実」かどうかが問題です。
「史料」を歴史家がどう使うかに、歴史家の見方が入り込む余地はあるかもしれませんが、「史料」自体が贋作かどうかという真偽の問題は、本来は人間の主観には関係ないことです。
また、事実としてあったかなかったかも、本来は人間の主観には関係ないことです。
文学なら、戦争はなかったことにしてもかまいませんが、歴史で、事実としてあった戦争を、なかったことにしたら問題です。
歴史は、その対象とすることが、人間の主観に関係ないことだから、文学ではなく、経験科学に類すると考えています。
当たり前のことのようですが、忘れられがちです。
歴史は主観で左右されることが多いかも知れませんが、対象としている、起きたこと自体は、過去の確定事実であり、これは主観とは関係ありません。それを探求するのだから、経験科学だと思います。
せいすいえいこ
2007/12/10 15:17

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