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zoom RSS 【哲学塾 歴史を哲学する 野家啓一著 岩波書店】

<<   作成日時 : 2008/06/12 01:09   >>

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以前に、せいすいえいこさんからコメントをいただき、いろいろと考えさせられることがありました。
せいすいえいこさんからコメントをいただいた記事など、以下をご参照ください。
http://cuttlefish.at.webry.info/200507/article_3.html
http://cuttlefish.at.webry.info/200712/article_2.html
http://cuttlefish.at.webry.info/200712/article_3.html

そんな議論にぴったりの本が、【哲学塾 歴史を哲学する 野家啓一著 岩波新書 2007年】でした。カバーには、”「客観的事実とは何か」について探究する科学哲学・分析哲学の知見いっぱいの刺激的な講義。”とあります。1週間の特別講義を模した形式で書かれており、科学哲学について何か読んだことがあれば、読みとおすことに苦労しないと思います。

こちらで指摘した
無理矢理ですけど、
歴史上の事実→科学的実在
史料→実験・観察データ
歴史解釈・意義付け→科学理論の構成

このように対応させれば科学哲学と同じような枠組の議論が成立するかも。
ということは、成立するかも、ではなく、成立するようです。本書にもありますが
「過去の実在」をめぐるやっかいな問題は、たとえば「電子の実在」をめぐる問題と、原理的に知覚不可能な対象の存在を論ずるという点では基本的に同じ構造を持っています。(p7)
おぉ。

著者は、ハンソン(観察の理論負荷性)、クーン(パラダイム論)、ファイヤーアーベントから強い影響を受けているとのことです。それらの影響を受けての話ですから、
僕が歴史哲学の文脈において「歴史的事実」や「歴史的真理」といった概念を再検討する際には、こうした科学哲学上の議論が背景にあることを頭の片隅の置いておいてください。さもないと、とんでもない詭弁を弄しているように受け取られかねませんので。(p8)
おそらく、せいすいえいこさんも詭弁と思われたかもしれません。この辺は要注意。

歴史の難しさは
確かに、歴史的出来事は歴史記述に存在論的に先行します。歴史的出来事が存在しなければ、歴史記述はその動機も手掛かりも失ってしまうからです。しかし他方で、歴史的出来事の存在は、「探究」の手続き、すなわち歴史記述を離れては確認することはできません。その意味で、歴史的出来事は歴史記述を通じてのみ知ることができます。(中略)この観点からすれば、歴史記述は歴史的出来事に認識論的に先行します。この認識論的先行性と先の存在論的先行性との間にある循環構造こそ、歴史認識を根底において特徴づけているものなのです。(p44−45)
そのような循環構造の中では、
歴史記述から独立の、それから切り離された歴史的出来事の存在を主張するような素朴実在論の立場は成り立ちえません。それは「存在」と「認識」との間に伏在する循環関係を無視した哲学以前の素朴な主張にほかなりません。(p48)


せいすいえいこさんがおっしゃった
「「史料」自体が贋作かどうかという真偽の問題は、本来は人間の主観には関係ないことです。
また、事実としてあったかなかったかも、本来は人間の主観には関係ないことです。」
というのは難しいようです。

さて、著者の歴史哲学に対する立脚点は「歴史の物語り論(ナラトロジー)(p9)」と呼ばれるものだそうで、ダントーの影響を強く受けたとのことです。5章に詳しく解説がありますが、
「物語りとはある出来事を別のものと一緒にし、またある出来事を関連性に欠けるとして除外するような、出来事に負荷された構造である。(p78)」
物語りは「記述」と「説明」を同時に遂行する言語行為にほかなりません。(p78)
物語られた内容を「物語(story)」と呼ぶとすれば、ダントーは端的に「われわれは物語にそれが始め、中間、終わりを持つことを要求する」と述べています。つまり、物語はいわば起承転結の構造をもつことによって、単なる記述のみならず説明の役割をも果たしうるわけです。(p78−79)
もうちょっと具体的な解説が、1章にあります。
”歴史を神の視点から眺める「形而上学的実在論」の視点を否定して、あくまでも有限な人間の観点から歴史を捉える「内在的実在論」の立場に立つこと(p9)”
”「歴史の物語り論 narrative theory of history」の基盤をなしている「物語り」とは、「ストーリー」ではなく、「ナラティブ(narrative)」(p31)”
”われわれは常にすでに「物語り」のネットワークのなかに生きているのであり、必要に応じて都合のよい「物語(ストーリー)」を勝手に選べるわけではありません。(p32)”
”物語り行為(narrative act)の遂行的性格は、歴史を物語るという行為が、どのような場面で誰が誰に向かって語るのかという言語行為の持つポジショナリティ(立ち位置)を明らかにします。それは「語り手」の位置が持つイデオロギー性をも暴露せずにはおかないでしょう。(p32)”
「物語り」のネットワークというのはクワインのホーリズムと関係あるんでしょうか。

物語り文というのがあるそうで、ダントーの定義によれば、
「少なくとも二つの時間的に離れた出来事を指示し、そのうちの初期の出来事を記述する」という構造をもった文(p80)
だそうで、例えば「『坊ちゃん』の作者は1867年に生まれた」(p80)というのが物語り文なのだそうです。この文は「夏目漱石は1867年に生まれた」と「夏目漱石は『坊ちゃん』を書いた」という二つの出来事を指示しており、時間的に先立つ前者を記述している(p80)ということです。

この文章、「あらゆる出来事を起こった瞬間に観察し、それを完璧に記録する超人的な能力(p81)」を持っている作者には書くことができない、というのも、1867年には『坊ちゃん』は書かれていないので1867年に観察した瞬間に
「『坊ちゃん』の作者は1867年に生まれた」と記述することは不可能(p81)。

あらゆることを起きた瞬間に観察して完璧に記録しても、できないことがあるわけです。この、「理想的年代記に欠落しているのは、複数の出来事を時間的に組織化するコンテクスト、すなわち「物語り」にほかなりません。(p82)。」なるほど。時間的な組織化がカギなんですね。

科学史からの例もありました。「アリスタルコスは紀元前270年に、コペルニクスが1543年に発表した理論を先取りしていた」(p83)。これは
アリスタルコスの地動説は、もちろんコペルニクス理論を先取りしようとして提起されたのものではありません。(中略)しかし、コペルニクスの登場によって、アリスタルコスの地動説が持つ歴史上の「意味」は明らかに変化しています。(p83)
科学関係の読書が多いからでしょうか、この例だとわかりやすい気がします。

科学哲学と同じような構造の議論もあるし、歴史独特の議論もあるし、従軍慰安婦の問題とかも書かれています。過去の実在については補講として最後にふれられています。これはこれで大変面白いというか難しい問題で、過去と科学における理論的存在などを絡めて話が進められています。

堅苦しくなく楽しく読めました。

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