三余亭

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zoom RSS 脳死議論をまとめた紹介する2論文は13日までに是非読まれるべきだ。

<<   作成日時 : 2009/07/10 23:56   >>

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参議院で臓器移植法案の採決間近です。13日予定とのこと。
期限が迫ったこんな時になんですが、ネット上でおもしろい論文が2本公開されています。どちらも児玉聡氏によるもの。
近年の米国における死の定義をめぐる論争
デッド・ドナー・ルールの倫理学的検討
アメリカでも脳死概念が学術的には問題になってきているようですが、それらの議論を整理してまとめた論文です。
なお、児玉聡氏については前に本ブログで言及していました。
腎臓移植待ちの患者を減らせるか?【生命倫理学と功利主義 伊勢田哲治・樫則章編 ナカニシヤ出版】

どの問題について考えるべきなのか、そこが整理されていないと議論が全くかみ合わないし考えるポイントもずれてしまいます。上の2つの論文を読みまして、特に今回の臓器移植法案改正にあたって考えるべき点は以下の2点だと思います。

1 「近年の・・・」7ページにある「(E)死はプロセスかイベントか」
2 「デッド・ドナー・ルール・・・」のDDR(デッド・ドナー・ルール、臓器を得るためにドナーが殺されてはならないことを要求する倫理的・法的規則)に対するDDR 例外許容論、DDR 堅持論(死の定義の変更あり)、DDR 堅持論(死の定義の変更なし)のどれをとるのか。

私は「近年の・・・」の中で書かれている以下の文章に説得されてしまいました。
プロセス説を支持する理由には、生と死の過程は連続的であるため、死の一点を決めるのは困難であるというものがある。また、いつ治療中止や臓器摘出をしてよいかという問いは、いつ死んだかという問いと切り離して問うべきものであり、そのために死を一義的に定義する必要はないとする主張もある。(p7-8)
他にも
、「死の瞬間は科学的または論理的過程によって発見できず、社会的合意によって選択されなければならない」としているトゥルーグらのように、死を科学的には決定できないものとして論じる論者がいる。(p10)
プロセス説でいいし、死の問題と治療中止も分けてよいし、死を瞬間としてとらえるならそれは社会が決めることだ、というのが論文を読んでまとまった今のところの私の立場。
またDRRに対しては以下の例外許容論の議論に惹かれます。
全脳死に対する批判がなされ、死のプロセスのどの一点を「真の」死と定義するかという議論は不毛であり、脳死を人の死とする「フィクション」を用いるよりもDDR に例外を認めた方が正直あるいは誠実であるということが述べられる。ついで、脳死体が生きていることを認めたとしても、臓器摘出は無危害原則に反しないと述べられる。というのは、そもそも殺すことは、それ自体が不正であるというよりは、それによって危害がもたらされるから不正なのであり、患者の利益が(ほとんど)侵害されていない場合は例外的な扱いが認められうると考えられるからである。(「デッド・ドナー・ルール・・・」p6)
臓器摘出の対象は論文で紹介されている例外許容論とは範囲が広すぎると思いますが。

参議院で議論される法案はどれもDDR堅持論ですから、論文を読んだ上で定まった私の立場は今回の法案では実現されないということになります。

DDR例外許容論は極端だと思われる方も多いでしょうが、
児玉氏も指摘されているように「もちろん功利主義者もそれ以外の人も、これまでの直観から新しい制度に対して強い心理的抵抗を覚えるかもしれない。(p188)」のですが、続けて書かれているように、「十分な教育や議論を行うことにより、われわれは新しい制度にやがて「慣れる」ことが十分に考えられるであろう。(p188)」
http://cuttlefish.at.webry.info/200611/article_4.html


加えて、伊勢田哲治さんの「動物からの倫理学入門」(名古屋大学出版界 ISBN978-4-8158-0599-9)からの引用となりますが、
人間(ホモ・サピエンス)以外の動物は権利というものを一切持たないと多くの人が思っているはずだ。(中略)なんで人間だけみんな生まれながらに権利を持っていて他の動物にはないのだろうか。
私はこの質問をいろいろなところで投げかけてきたが、まずはそもそも何を聞かれているのかわからないという人が多い。「そんなもの、人間は人間で動物は動物なんだから違うのは当たり前じゃないか」(中略)
しかしちょっと待って欲しい。前の問いかけの「人間」と「動物」を「白人」と「黒人」におきかえ、19世紀のアメリカ合衆国南部や20年ほど前の南アフリカ共和国の白人に問いかけてみたとしよう。かれらもやっぱり「そんなもの、白人は白人で黒人は黒人なんだから違うのは当たり前じゃないか」(中略)
倫理とは時代によって変わっていくものです。

私見になりますが、今回の臓器移植法案改正は我々の社会が臓器移植しか治る手段のない人にどう対応するか決めるということが一番の問題です。より具体的には15歳未満の子供や親に「治療はないので死ぬのを待つしかない」と社会が言うのかどうか、という問題。二番目の問題が、臓器提供に関して当人が意思表明する権利が認められなくなる条件はどのようなものにすべきか、というもの。心臓死以後は所有権や選挙権が無くなるのと同じように、脳死以後は臓器提供に関して意思表明する権利を無くしてよいかどうか、と言い換えてもよいでしょう。現時点では残された家族の意向を無視して臓器提供するほどの強制力はない方が社会の安定の観点からよいと思っていますので、家族の意向は尊重した方がよいと思います。いろんなところで議論になる「脳死が人の死かどうか」は問題ではないし、そもそも死を一点に決めることが無理です(となると、心臓死をどう考えるかという話になって、それは法律上の様々な権利を失う点と考えるべきだ、と思いました)。

どんな立場の人も、児玉氏の2本の論文に目を通しておいた方がよいと思います。考えがまとまります。13日までに是非。

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